第17話 復帰の条件 2
「……沙羅の復帰についてお考え下さりありがとうございます。水晶の件に関しましては、もうしばらくお待ち下さい」500万円は大金だ。久美子は力なく答える。
「なるだけ早い方がいいですね。沙羅さんの妊娠が他の信者に知られる前に」
竹富が不気味な笑いを岡村に向けた。この二人は沙羅の妊娠を知っている。なぜ?久美子は衝撃を受け、二人を凝視した。
「神はなんでもお見通しです。久美子さん、隠しておきたかったでしょうが、神を侮ってはなりません。生まれてくる命は、たとえ父親が信者でなくても、教団の宝です。沙羅さんが早く復帰すればお腹の中の命も救われます。久美子さん、あなたは幸せな方だ。娘と孫と一緒に楽園の地に入る希望が差し伸べられているのですから」
久美子は我に返った。そうだ、幹部の言う通り、従順を示せば、沙羅だけでなく生まれてくる命の救いにもあずかることが出来る。500万くらいなんとかなる。弘志からの慰謝料と、父親から相続した現金も残っているはずだ。長に柔順を示さなくては。
「水晶を、沙羅の為の水晶をぜひ、神から頂きたく存じます。沙羅の汚れた身と心を、水晶で浄め、悔い改めまして御前に参じたいと思います」
久美子が畳におでこをすりつけ懇願すると、長は頭を上げるように言った。そして、久美子と沙羅、お腹の子のために祈り始める。久美子はもったないなくて、顔を上げられずにいた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。これからも、黒瀬教祖様と神の為にこの身を削る覚悟でございます」
「……良い決断をされました。本部に戻ったら、すぐに水晶を送りましょう。お布施は、この支部会計を担当している丸山に渡して下さい」
長は久美子の信仰の深さを褒め、満面の笑みを向けた。久美子は何度も頭を下げ、戸を閉め出て行く。その足で預金通帳と印鑑を取りに戻った。
「……あの女性ですか、資産家の娘は。この支部には神に愛される信者がたくさんいるのですね。竹富君、岡村君、君たちの事を黒瀬教祖に報告しておきましょう。神の為によく働く奴隷だという事を。今日は気分がいい。本当に気分がいい」長と呼ばれるその男はガハハと笑った。
「言い忘れた、君たちに本部から金バッジが届くでしょう」
竹富と、岡村はその言葉に驚き、二度頭を下げる。久美子の返事で水晶のお布施がちょうど一億になったらしかった。金バッジは功績を称えられた証だ。
「この支部は優秀ですね。神のご加護を!」長は二人の肩を叩き、部屋を出て行く。次の支部訪問の時間になったからだ。
久美子は家に戻ると、二階の寝室のクローゼットを開け、鍵を取り、また階段を降りる。足がよろけて転びそうになる。一分一秒でも早くお金を用意したかった。沙羅の復帰の条件のためなら何でもしたかった。
金庫の鍵を開け、通帳と印鑑を取りバッグに入れ、車で銀行へ向かう。まだ十時前だ。混んでいるとしてもお昼前には丸山に渡せるだろう。
銀行の窓口で身分証明書を見せると、久美子は奥の部屋に通された。父親の知人と名乗る支店長は、久美子に500万をすぐに用意してくれた。大金を入れたバッグを抱えて、車を走らせる。
この登り坂は、沙羅が家を出て行って一年半、何度も泣きながら通った道だ。沙羅に戒めを与えた岡村への怒りでアクセルを強く踏んだ夜、排斥だと容赦なく決定した竹富の顔を思い出す。この一年半、仲間の信者の好奇の目に久美子は怯え、まるで針のむしろに座っているようだった。
「まさか沙羅ちゃんまで排斥なんてびっくりしたわ」
「淫行なの?それとも信仰否認?」「黒瀬教祖の事を悪く言ったとか?」
「沙羅ちゃん、表裏のある子に見えなかったのに残念だわ」
仲間の信者は心配するふりをして内心ではほくそ笑み、久美子の不幸を楽しんだ。久美子の自尊心はズタズタになり、怒りが沙羅へむかう。傷ついた自尊心を修復する為なら500万円なんて安いものだ。
「……まさかお母さんが自殺するなんてびっくりしたわ」
「不倫でしょ、まさか蒸発するなんてね」
「久美ちゃんなら大丈夫よ。頑張って」近所の人や親戚の言葉までも重なって、久美子の胸は掻き毟られた。沙羅の救いより、今は自分をあざ笑った人たちを見返してやる。
涙を拭いて、久美子は丸山のいる三階の事務所に向かった。
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