第15話 双樹からのメール

 沙羅はメールを打ち終わると、シャワーを浴びた。冷えた体を湯船で温めたかったが、水道光熱費を節約しなくてはいけない。弘志から貰った一万円札を貯金箱に入れる。少しでも貯めて、産後に備えなくては。


 家を出る時。久美子は勘当だと言いながらも、家を借りるお金と当面の生活費を渡してくれた。万引きでもして、警察沙汰になったら面倒だという理由からだ。ずそれまでずっと、この教団のお陰で、娘は真面目で正直な人間に育ったと自慢していたではないか。掌返しの評価を平気で口にする久美子の冷酷さに呆れる。


 髪の毛を乾かしていると、双樹からメールが届く。

『沙羅へ  元気そうでよかった。俺の連絡先は教えないで欲しい。

沙羅、子供の為に教団に戻った方がいい。その方がいい」


 口数の少ない兄でも、たったこれだけなのか、困惑する。何より最後の一文は予想外の言葉で驚いた。二年前、双樹と喫茶店で会った時の言葉と正反対だからだ。


◇◇◇◆◇

「お兄ちゃん、少し痩せたんじゃないの?ちゃんと食べてる?」

「……寮生活は規則正しいからな。元気だったか?相変わらずか?」


 久しぶりに会う双樹は頬がこけていたが、目は生気があった。高校卒業と同時に家を出た双樹は、少し大人びている。


「仕事は大変だけど、毎日が楽しいよ。やっと解放されて自由を得た感じだ

沙羅も早くあんな所やめて、自由を満喫しろよ!」


 双樹は笑いながら、しかし目は真剣で沙羅に訴えるように言った。沙羅の心は決まっている。一週間前、久美子に信仰などないと言葉を投げつけたばかりだ。先にやめた兄に背中を押して欲しくて、喫茶店に呼び出した。


「私も辞めたい。けど、お母さんと話せなくなるんだよ。お兄ちゃんがやめて、私までいなくなったら……お母さんが心配なんだ」

「そんな事気にするな!沙羅、自分の人生なんだよ」双樹の語気が強まる。


 儚仏ぼうぶつ真理教は、本来個人の自由意志に任せて、信者になるかならないかを本人に決めさせる。教団の教えを学び、基礎知識を取り入れる。そして真理だと確信した者は、それまで所属していた宗教をやめて、儚仏真理教へ改宗する。黒瀬教祖と教祖の信仰する釈迦に献身すると誓い信者となる。


「……沙羅はまだ十二歳だったんだ。生まれてからずっと教団の教えを叩き込まれて、この世界しか知らないだろ?献身してしまったのは仕方ないけど、辞めるのも個人の自由だと思わないか?」双樹の怒りが伝わってくる。


 久美子のように、分別ある大人になってから信者になった者はまだいい。双樹や沙羅のように生まれた時から教え込まれた者は、自分の意思や信仰なんて持っていなかったはずだ。


「お兄ちゃんは十歳だったね。お母さん、すごく喜んでくれたよね。献身した事後悔しているの?辞められて良かった?……私も辞めたい」


 沙羅は自分も脱退したい気持ちを打ち明ける。ただその選択をすれば、教団信者からの無視、忌避がある事を知っていた。自分の意志で信者となったのに辞める事は、信仰を否認する事、いわゆる背教者として隠れて生きていかなければいけない。沙羅と同じくらいの友達も、辞める選択をして地元を離れた。


「沙羅、紗羅にとって罪を犯すとはどんな事だ?」いきなり双樹が質問する。

「盗み、殺人、薬物使用とかかな?」警察に捕まるような犯罪を即答する。

「だろっ。この教団では恋愛は罪だ!おかしいと思わないか?」


 双樹は高校二年生の夏、クラスの女子とデートをしているところを仲間の信者に見られ、教団からいましめを与えられた。デートを繰り返す事は、淫行の入り口となり、結婚前の性的不道徳への誘惑となるという理由だ。


「……ほとんどの若い子がデートしただけで戒めだよね。お兄ちゃんも知ってたでしょう?」沙羅は兄を責めるように聞いた。


「沙羅、よく考えてみろ、普通に人を好きになって、普通にデートして何が悪い?すぐに性的不道徳に結びつける大人達の方が不純なんだ!」


 双樹はその時にされた質問を沙羅に話す。キスはしたのか、手は握ったのか、その子の事を考えてマスターベーションはしたのかなど下らないものばかりだ。


「もう我慢の限界だった。こっちから辞めてやるって言った!沙羅、この教団はおかしい。みんな狂っている。一日も早くやめろ!沙羅の事は俺が守る。もう親でも子でもないって言われたんだろ。ちょうど良かったんだ。こっちから辞めるには断絶届けが必要だ。沙羅、来週の日曜日、またここで会おう。その時に届けの書き方を教えてあげる。いいか、必ずここに来るんだぞ!」



 約束の日曜日、沙羅は喫茶店で双樹を待っていたが、都合が悪くなったとメールが入った。そのメールのあと、断絶届というワードが打たれる事はなかった。


 やはり、気になり、沙羅はもう一度、双樹に電話する。

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