滞空日和

有翼者

 視線に気づいた。

 向かいの座席で、年端も行かない少年が僕を怪訝な目で見つめていた。口を半開きにし、異質なものを発見したかのように指を突きつける。


「ママ、あの人……」

「ユウくん、ダメよ……! ごめんなさい、うちの子が……」


 子どもは無垢だ。仕方ない。

 僕は会釈をすると、手元のスマートフォンから視線を外す。なるべく作り笑いにならないように、出来る限り人当たり良く。うまく笑えるようになっているはずだ、大丈夫。


「あの人だって頑張って生きてるんだから、指差しちゃダメでしょ? 苦労してるのよ、きっと……」


 全然大丈夫ですよ、と僕はあくまで爽やかに笑う。自分よりもお母さんの方が頑張っていると思いますよ、という皮肉めいた言葉を堪えて。


 大都市に向かう朝の電車には、ぽつぽつとスーツ姿のサラリーマンが乗車している。彼らは難しい顔で新聞を読んだり、スマートフォンをチェックしたりしていた。時間帯的に通勤ラッシュは避けているものの、彼らの顔は皆物憂げだ。来年からは、僕もその一団に入っていくのだろうか?

 満員電車に、“止まり木”は無い。車両内の一角にある特殊な広いスペース、成人男性の胸ほどの高さに設置された特殊な座席は。


 肩甲骨から生える翼と、膝から下が退化した脚。有翼者がこの国の人口に占める割合は、約3%であるという。これは先天性と後天性があるらしく、足が不自由な人に人工的な翼を搭載したケースは一般的になりつつある。

 背中の翼は、他の人々が羨む物ではなかった。何せ、自分の足で歩く事が難しいのだ。かつては家族や社会の判断で家の中にいる事を余儀なくされていた。空を飛ぶことを制限されて羽を伸ばせない、安全で退屈な時代だった、という。

 現在では、国際的に法律や社会体制が整うことで社会参加の可能性が増しつつある。今は、その過渡期なのだ。


 買ったばかりのTシャツは、ややオーバーサイズ気味だ。背面で震える小さな翼を収めるには、体に合ったサイズだと窮屈すぎる。前にデザインに惹かれて買った物は、翼のせいでバックプリントが裂けた。たぶん、二度と買わないだろう。

 向かう先は、大学キャンパスの最寄り駅だ。それなりにネームバリューのある私立大学が都会と田舎の間に建てた、収容人数の多いキャンパス。選んだ理由は、配慮がしっかりしているから。広い構内を動き回るのは苦労するが、教室を見て履修する授業を決めることにはもう慣れた。数字が大きい棟ほど後に建てられている為か、止まり木が少し洒落ているのだ。


 くだらない話題ばかりが流れていくSNSのタイムラインを黙々と眺め、時折ニヤニヤと笑う。趣味の話題で構築したタイムラインは、自分が有翼者である事を時折忘れそうになる魔力があった。まるで擬態をするかのように周囲に溶け込み、独り言をインターネットの海に放流する。好きなゲーム、流行りのアニメ、面白い漫画。リアルな周囲には見せない、自分の個性の発露。

 ふと目を向ければ、画面にはプロモーション投稿が流れていた。芸能人がチャリティを行う、年に一度のイベント番組だ。毎年多額の募金が有翼者のようなマイノリティ団体に寄付され、人工翼や“止まり木”に変わる。人々が有翼者のようなマイノリティに目を向ける、一種の祭めいた物だと思っている。

 薄目で投稿をスキップした。今年も有翼者のチャレンジ企画はあるのだろうか。あれには、あまり良い思い出がない。


『翼を持つ少女が、自らの脚でマラソンを行う!』


 その年は、自らの脚で歩くことを夢見る先天性有翼者の少女が翼を使わずに長距離走を行う感動的な企画だった。彼女の努力の軌跡が流行の応援ソングと共にドキュメンタリー調で流され、右上のテロップで出演者が涙を流している。

 僕は、それをリビングで遠巻きに見ていた。翼を持たない家族の、「この子だって翼があるのに頑張ってるんだから……」という呟きを苦笑いでいなしながら。

 彼女の努力は賞賛すべきだ。自らの努力で夢を叶え、この番組を見ている人に感動を与えている。だが、僕と彼女は別人なのだ。努力できる才能の有無か、その方向性か。

 それなのに、彼女と自分を比較するのは、プロ野球選手と草野球のプレイヤーの練習量を比較し、草野球プレイヤーに努力を強制するかのような違和感があった。


 それから、有翼者同士が空中で行うスポーツが国際的に流行した。メディアも注目しはじめ、アスリートは自らの能力を研ぎ澄ましていったのだ。大きな翼を羽ばたかせ、自信たっぷりに大空に舞う。かつての時代では考えられないほど、彼らは自由に飛んでいるのだ。

 その存在は、有翼者の社会的地位の向上に一役買ったという。ワイドショーでフライトスポーツが特集され、来年の国際大会はこの国で行われるらしい。

 彼らアスリートはプロフェッショナルであり、天上の人と言っても良いかもしれない。とにかく、彼らと自分を翼があるという点だけで同一視するのは失礼ではないのか、と思うのだ。


 僕の持つ歪な翼は、どちらにもなれない。1メートルほどの高さを滞空するように飛ぶことしかできず、全速力で羽ばたいても普通の人の早歩き程度だ。見た目も決して綺麗ではない、濡れたカラスのような色をしている小さな羽である。

 それに、自分の足で大地に立つのも難しい。退化した膝から下は、辛うじて人の形を模しただけの飾りだ。見た目はほとんど変わらないが、細かく動かすとなると人形を動かすかのようなぎこちなさがある。どちらも子どもの頃はコンプレックスだったが、今はもう慣れてしまった。

 自分で立てないことも、空を飛べないことも、周囲が思うほど不幸ではないのだ。流石に20年も生きていれば日常の一部であり、僕は自分なりの“普通”を生きている。周囲のサポートや善意によって生きているのは、僕のような有翼者だけではなく世間の大多数がそうではないか? 俯くサラリーマンも、子どもを諭す母親も、誰かの助けを借りて生きている。それは不幸な人生なのか?

 僕よりも頑張っている人なんてたくさん居るのに、「頑張って生きている」と言われるのはむず痒い。だからと言って自分が何か頑張るわけでもないし、僕は僕なりの人生を歩んでいくだけなのだが。


 まるで童話の蝙蝠コウモリだ。僕にとっての翼は、努力して乗り越える障壁でもなければ、神に与えられた祝福でもない。

 蝙蝠が鳥でもなければ獣でもない中途半端な存在であったように、僕のアイデンティティは辛うじてマイノリティである有翼者だが、僕という人間の大部分を占める要素ではない。


 天使のように綺麗な翼で空を飛ぶわけでもなく、あの少女のように努力して自らの脚で大地を歩くわけでもない。僕は中途半端な人間だ。背中の翼はコンプレックスでありアイデンティティで、否が応でも僕の人生を構成するパーツの一つなのだ。


 それでも、時折翼のない人生への憧れを抱く事がある。出会う人が自分の背中ではなく、退化した脚でもなく、僕という個人をまず見てくれる世界を。

 だから、僕は擬態を続ける。半匿名の世界、インターネットという広大な海で。外見ではなく、剥き出しの自分を晒すことで。


 最寄り駅が近くなり、僕は滞空の用意を始めた。

 天気は梅雨時の曇り空、ツバメさえ低く飛ぶ低気圧だ。まさしく滞空日和だと思い、少し笑う。

 厚い雲の上で青空を飛ぶ天使になれなくても、水溜まりを蹴り歩く人間になれなくても。空でもなく地面でもない場所を不格好に飛ぶ、蝙蝠コウモリでいるのも悪くないのかもしれない。

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滞空日和 @fox_0829

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