宿題 - 傘越しの鈍色の空 -

宇佐美真里

宿題 - 傘越しの鈍色の空 -

梅雨はまだ終わらない。

例年に比べ、今年の梅雨明けは大幅に遅れる見通しだと

今朝のニュースでは言っていた。

明日からはもう夏休みだというのに…。


一ヶ月という長い休み。

いつもなら首を長くして待つはずの夏休み。

だけど…、今年の其れをワタシは好きになれそうもない。


鈍色の空は低く、明日からの夏休みとは結びつかない。

夏と云えば何処までも青く高い空。溢れるように其処に広がる入道雲。

やはりその組み合わせだろう。


走り行くバスの窓からワタシは、どんよりと重たい空を見上げていた。

またすぐにでも雨が降ってきそうな気配だ。



バスはゆっくりとスピードを落とし、

次の停留所で停車する。


いつもの時間…いつものバス。

車内には、名前も何も知らないけれど見慣れた人々が乗り合わせる。

互いに言葉など交わさない顔馴染みたち…。

ワタシは乗車口に目を遣った。


いつもの停留所であのヒトが乗ってくる。

混んだ車内を縫うように奥まで進んでくる。

ワタシの座る席をゆっくりと通り過ぎ、更に奥へと進んで行く。

最後尾の空席に腰を下ろすのを、ワタシは横目で盗み見る。

いつものように鞄から取り出した文庫本を広げ、目を落とすあのヒト。


いつもの時間…いつものバス。

ワタシはもう四ヶ月近く、毎朝同じバスに乗り続けている。

そう…。変わることなくあのヒトも、毎日同じバスに乗ってくる。

互いに言葉ひとつ交わさないけれど、

いつもの見慣れた乗客…。名前も何も知らないけれど馴染みのヒト。


乗り込む場所は違っているけれど、ワタシたちの降りる停留所は同じ。

ほんの僅か十分程度を共有するバスという名の空間。

互いに言葉すら交わすこともない僅かな時間。たった十分…。


窓の外に見える鈍色の空は更に重みを増していき、

いよいよポツポツと始まった…。降り出した雨…。


今日も残り時間はあと僅か。

次の停留所を知らせるアナウンスが、

窓の外に低く見える空のように、ワタシの気持ちを重くさせる。

更に追い討ちをかけるかの如く、次第に強くなる雨…。


心の中の暗雲を払うように、ワタシは勢いよく席を立ち上がる。

降車口のドアが開く。降車口の段差を一歩二歩と降りる。

手にしたビニール傘が思う様に開かない。

焦れば焦るほど、互いに張り付き合ったビニールが上手く剥がれない。

雨に濡れていくワタシ…。身も心も濡れていく…。


その時ふと雨足が止んだ。

差し出された大きな黒い傘。

振り返るとそこに…あのヒトが居た。

ワタシに差し出された黒い傘。

「濡れちゃうね…」

耳に届いてきた初めてのあのヒトの声は…、

イメージよりも少しだけ低かった。


「あ…。す、すみません…ありがとう…ご、ございます…」

焦れば焦るほど、上手く剥がれないビニール傘と同様に、

しどろもどろになりながら、ようやく言葉を返すワタシ…。

雨に濡れ、冷たいはずの頬はひどく熱かった。


ようやく開くビニール傘。

「ありがとうございました…」

もう一度お礼を言いながらも、あのヒトの顔は見られないまま

ワタシは雨の中、停留所を学校へと走り出す…。


明日からは夏休み。一ヶ月という長い休み。

今年の夏はやはり好きになれそうもないと改めて思う…

一学期最終日の雨の朝。


そう…。明日からは夏休み…。首を長くして待つ休み明け。

新学期初日のバスでもう一度、きちんとあのヒトにお礼を言おう。

それが…この夏のワタシの宿題。


言葉を交わすきっかけをくれた雨。

鬱陶しいだけだったはずの梅雨を、少しだけ好きになれるかもしれない…。

ふと、そんな気がした。少しだけ…。少しだけ…。


ポツポツと音を立てるビニール傘越しに見上げた鈍色の空は

少しだけ軽くなっていた。



-了-

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