第26話 姉さん再び
19時。鳴り響く鐘の音は、生徒の全てが帰宅する合図。 放課後の教室に、誰も居なくなってからも尚、俺は待ち続けていたが、もう時間だ。席を立って鞄を背負うと、大人しく家路に着く。
逃避の果て、彼女がその限界を迎えた時にどこへ現れるのか。幸いなことに、その場所は検討が付いていた。しかし今日はもう来ないだろう。
この──教室には。
廊下ですれ違うかも、下駄箱でばったり会うかも、校門を出ればそこにいるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、いつもと変わらぬ通学路を逆走した。
まくりに頭を冷やされ、御伽ちゃんがきっかけを与えてくれた。だがしかし、肝心要の結論を、俺はまだ引き出せずにいる。あと一歩だと、そう思うのだが、届かない。
他者を信用していない鳴子に、どうすれば俺は信頼してもらえるのか。
考え事をしていても、無意識下で歩いていても、信号では止まるし道を間違えることはない。彼女が失踪しているというのに、俺は何もしないまま、ただ頭を悩ませて、歩いているだけだった。
自宅の玄関に辿り着き、靴を脱いでいるこの瞬間でさえも、どうしようもない無力感に襲われる。
「……はぁ」
階段を上がる足は重く、拭い切れない裏の痛みに眉間を顰めてしまう。
もしもこのまま、鳴子が見つからなかったら──俺はどうするだろう。何も変わらず学生生活を終えることが出来るだろうか。満喫したと、謳歌したと、そう言って卒業を迎えられるだろうか。いや、そんなことは無理だと思う。俺はきっと、多分──泣いてしまうんじゃないかと思う。そして結局何も出来ないのだ。
役立たずの思考と荷物を引っ提げて、自室の扉を開けた時、
「おっかえりー」
「ッ……人の部屋で何してんだ」
人の部屋で、俺の気も知らないで、優雅に紅茶なんか飲みながら寛ぐ──姉さんがいた。
「まさかベッドの下に隠れてた時より驚くとは、夢にも思いませんでしたわね」
片目を閉じて、小指を立てて、カップに口を付ける姉さんが。
「……大学はどうした、暇なのか?」
「言ったじゃーん。悩みがあるなら姉さんに相談しなさいよって。どうどう? そろそろ相談したくなっちゃったんじゃないの?」
ほら、思った通り姉さんは付き纏う。どこから嗅ぎつけたのか、それもこんなタイミングで。まるで俺の事情なんてなんでもお見通しだと、実際に見て聞いて来たと、そんな知った顔で姉さんは尋ねた。
「サークルとか飲み会とかコンパとかあるだろ。もしかして友達いないのか?」
「うーん、あんまりいないかなー。トシほどじゃないけど」
ちょっとした腹いせのつもりだったのだが、思わぬカウンターを食らってしまい、俺のライフはもうゼロだった。
「まあまあ突っ立ってるのも馬鹿みたいだし、座りなさいな」
「……」
鞄をベッドに放り投げ、少しだけ強めに腰を下ろした。
「それにしても意外だな、姉さんに友達が少ないとは」
「必要そうな人脈は揃えたよ。大学っぽいことも一通り経験出来たし、もう良いかなって」
「誰にも迷惑掛けてないだろうな?」
「今日の晩ご飯なんだか知ってる?」
「俺の質問どこいったんだよ」
「カレーらしいよ。よかったね」
ラチがあかないとは、こういう事を言うのだろうか。話していても時間の無駄だ、というかそもそも姉さんは俺の話を聞いていない。
「あ、そういえばご飯誘われてるの忘れてた」
「……大学でもモテモテか」
姉さんはスマホを取り出すと、画面を見てギョッとしている。
「うわーめっちゃ電話来てる。アハハッ」
「何が面白い」
「そろそろスマホカバー替えたいなー手帳型にしよーかなーどうしよっかなー」
チラ、チラと視線が画面と俺の顔を行ったり来たり。
早く話せ、とそういう事。それ以外の話を聞く気も興味もないと、姉さんはそう態度で表しているのだ。分かり易く、判り難くも、思っていることははっきり伝わっている。
「……」
「お、やっと話す気になった?」
姉さんの言う通り踏ん切りは付いていないが、少なくともその気にはなった。話すまではこうして何度も部屋に無断で侵入を繰り返す、かと思えばある日突然飽きて、ぱったりと来なくなることもある。だがそれを待っている間は、ストレスに身を晒し続けるしかない、そんなことは御免だ。
だが、話してどうなる?
姉さんは、こんな事を思いたくないが頭が切れる。それこそ気持ち悪いくらいに、内面や考えている事を言い当てるのだ。もしかしたらもうとっくに、俺の考えなどバレているかもしれない。
だからこそ──嫌だった。何でもお見通しだと言われているようで、腹が立つ。
「踏ん切りのつかないトシのために、一つ断言してあげよう」
そう、こういう感じで、姉さんは言い当てる。
「もし私に相談してくれたのなら、必ず──彼女を救わせてあげる」
必ず、と最後に再度付け加えて姉さんは断言した。人差し指を伸ばし、真っ直ぐに俺を指差して。
何故姉さんが──彼女、という人称を使ったのか、確かなことは分からないが、それでも、その言葉は正しく俺の悩みの凡そを理解しているような口振りだった。俺を通して彼女の悩みまで知っているような、そんな口ぶり、嘯き。
「それを信用しろと?」
「家族なんだから問答無用で信頼して欲しいところだけど、そうだな……じゃあ、もし私の助言でトシの悩みを──最終的に解決出来なかったその時は、この家から出て行く、でどう?」
「……分かった」
姉さんは嘘つきだ。しかし──約束を破ったことは一度もない。
勿論、この家から出て行って欲しいから、素直に首を縦に振ったのではなく、姉さんがそこまで言うなら聞いてみようという、言葉を借りて言うなら、家族の信頼ってやつだろうか。
──いや違う。
「じゃあ、話してごらん。あー楽しみだなー、どんな甘酸っぱい青春秘話が聞けるんだろー」
割と重たい条件を自分で提示しておきながら、随分と軽い態度に思える。それこそ相談を聞くようなものではないくらいには、姉さんの肩に力が入っていない。
それは本当に姉さんなら何とかしてくれるんじゃないか、そんな頼りがいも孕んでいるのだから、余計にムカついた。
しかし俺が口を開いたのは家族の信頼でも、頼りがいがあったからでもないと思う。多分、切羽詰まっているのだ。このままでは何も出来ないと、どこかで分かっていたからなのではないか。
だから、俺は姉さんに相談をしてしまった、そう思う。
「他人の思いを信用出来ない、そんな人間に、俺の思いを信じてもらうにはどうしたらいい? しかも信用出来ない理由は、凄く辛いもので、同情出来て、理解出来るものだったとしたら、そんな人に──いや、そんな彼女を、どうやって救えると思う? そんな彼女に俺は、何て言えば信じてもらえるんだ?」
殆ど思いのまま、思い、悩んでいるものをそのままで、姉さんへとぶつけた。
言葉にして、吐き出して、それなのに、
「なーんだ」
そんな一言で切り捨てられた。吐き捨てられたのだ。
元々身を入れて話を聞いていたわけでもないくせに、力が抜けたと、そんな感じで床に寝そべって、家族間でもどうかと思うくらい、両足をおっ広げて、姉さんは溜息を吐いたのだ。
「思ったよりも下らない、いや思っていた通り下らないものだったかなー」
お前の悩みは、鳴子の悩みはそんなものなのかと言われたようで、
「今すぐこの家から出て行け」
気付けば俺は、拳を握り締めていた。血が滲むほど、痛みすら感じない程に強く握り締めていたんだ。
「いやいや本当に下らないよ。大体もっと簡潔に言えるでしょそれ、『僕はちょっと気難しい女の子にフラれちゃって困ってまーす』とかさ。それをよくもまあそんな長ったらしく脚色出来たもんだね」
脚色、していたつもりはない。思った通りに思いのままに告げたはずだ。
「言葉なんて、脳内ディレクターが編集して放送してるだけなんだから。信用も何もないんだよ。その子の信用出来ないっていう言葉だって結局嘘かもしれないしさ」
「そんなことあるわけ」
「ないって言い切れるよね、トシにはさ。だってその子の事信用しちゃってるから。どれだけ近くても遠くても、それが言葉で伝えられたのならまず疑わないと。その点、その子は優れてるよね──ちゃんと自分を判断を信じて、他人を疑ってるから」
当てどころのない怒りが徐々に鎮まっていく。
「大事なのは自分を信じられるかどうか──他人なんて信用しなくて良いんだよ」
これが、俺の悩みに対する助言だと、そう理解出来たからだ。
厳しく、甘やかさずに、刺のあるものでも躊躇なく投げ掛ける。家族であるからこその相談なのだと。だからだろうか、何となく、大凡だったが、朧げに何かを掴めた気がする。
「はー、本当に下らなかった。お腹空いた」
「……じゃあ礼はいらないな」
「そんなものいらないよ。だって家族じゃんか──その代わりに……とお!!」
勢いよく体を起こし、両手を広げ、飛び掛かってくる姉さんの姿がスローモーションで、それこそ脳内ディレクターとやらを通して、眼前に迫りくる映像が編集されていたように見えていた。
「──ッ、ちょ、離れろ」
「良いじゃんかー家族なんだからー」
「家族はこんな風にベタベタしない」
「良いじゃんかー血は繋がってないんだし」
「……は?」
え、今なんて、言った?
「いや嘘だけど」
「……本当に家から出て行けよお前」
あまりにも唐突過ぎて突飛な嘘だったので、思わず信じてしまう。
姉さんの言葉の意味がようやく理解出来た──結局、他人の言葉なんて嘘ばっかりだと。
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