第15話 スナイパーの少女

 読書は脳に良いらしい。それは集中力を高めたり、思考や論理を形成する力を養ったり、語り始めれば多岐に渡る。知らなかった知識に巡り会う事も出来るし、小説を読めば冒険を擬似体験出来る。


 漫画やアニメと違うのは、自ら進んで受け入れるかどうかだ。


 イメージを直接流す動きのあるものとは違い、活字はある程度自分で想像を膨らませる必要がある。脳で補完する工程が、思考を活性化するのだ。勿論漫画やアニメを否定するつもりは無い。あれはあれで素晴らしいものであり、絵や動きが魅せる迫力は時に感動を与えるものだ。


 受け入れるか、与えられるか。その違いしかない。


 しかし、読書の一番の効能は、


 本読んでると頭良く見える、というところにあるんじゃないか。特に意味もなく、なんとなく難しそうな本を捲っているとそんな気分に浸れてグッドだ。俺もたまにやる。



 


 図書室はいつも閑散としている。それが試験前であれ、読書の秋であれ、図書室とはそういう場所だ。例え図書室が撤廃されたとしても、ここはそう有り続ける。


 事実、自分もこの場所を利用するのは今日が初めてだ。


「人間関係に関連する本はあるか」

「え」


 図書委員にそう告げた時の苦笑いを、俺は絶対に一生忘れない。


 ここへ来る目的は一つ、本を読む為だ。以前眠れない夜を過ごした際、スマホで色々と検索をしたが、どれもこれも効果は期待出来なかった。それは恐らく確証や裏付けの無い記事を含めて見ていたせいだ。つまり自分にはネットリテラシーというものが足りていなかったのだろう。しかしこの場所は違う。蔵書は事実に基づいて構成されたものが殆どなのだ。


 煮え立つ腹を抑えて向かったのは、人気の小説や自己啓発本を抜けた先、日の当たらぬ端の端。


 あのくそったれ図書委員に聞いた棚には、確かに幾つか関連している書籍があった。『心理学』と銘打たれた、一体これ誰が借りるんだよという堅苦しいものから『トモダチとなかよくなりたい人へ』というやたらと陽気なものなどの数冊。


 そんな中で迷わず手を伸ばして取った一冊『コミュ障よ、大志を抱け』


 タイトルを見た瞬間、目頭が熱くなった。何という力強い一言だろう。俺は決してコミュ障では無いが、不思議と読んでみようという気になった。


 目次をすっ飛ばして、一行目に食い入る。


『私は中学時代、ずっと孤独に苛まれていました。そんな私が今では100人の美女に囲まれ、満タンに札束が溜められた風呂に浸かっています。どうして成功したかって? それは』


 素晴らしい書き出し、内容がどんどん頭に入ってくる。みるみるコミュ障が治っていく。成功の秘訣や今まで知らなかった事実に、目から鱗が滝のように流れ落ちていくようだ。こんな本があったとは、何故もっと早くに出会えなかったのだろう。これで俺も夢の億万長者のタワマン生活が現実に……


「その禁断の書に目を付けるとは、何者ですか」

「は?」


 と背後から声を掛けられた。


 誰だ? 今俺は高尚な文学に身を窶している最中だというのに。もう少しでこの世の真髄を拝めそうだったのに、そんな時にそんな馬鹿げた声を掛ける馬鹿はどこのどいつだ。許せん。


 振り返る、精一杯の厳つい目つきを添えて、振り返ってやる。


「ほう、鋭い眼光。死線を幾つか潜っていると見えますね」


 小さい。とっても小さい女の子。


 とりあえず第一印象はそんな感じだった。彼女の言う──眼光を下げなければ全体を見れないくらいには小さかった。


「む……何だか見下されているような気が」


 ような、というか思い切り見下しているのだが、というか何だこいつは。


 丁寧に手入れされてはいるが、伸びた黒髪はかなり伸びきっており、分かれた部分から片目のみを覗かせている。しかしそんな事よりもずっと目を引いたのは、首元のチョーカーと指なし手袋、


 そして──左手首に巻かれた包帯だった。


 怪我をしているのだろうか、とも思ったがこれは恐らく違う。そして俺はこれを知っている。こんなあからさまなものは中々お目に掛かれないが、口調や振る舞いから分かる。


 間違いないコイツ、厨二病患者だ。


「まあ良い。それを寄越して下さい一般人。見ての通り私は──厨二病ですから、大人しく言う事を聞かないと、何をするか分かりませんよ」


 しかもまさかの自称をしている。リボンの色を見るに、一年生の女の子。


「……ああ、これが読みたかったのか」


 まさかコイツもこの書籍の虜だったとは。というかこんな奴と趣味が被っていたのか俺は。


「ちょっと待ってくれ。俺にはこの本が必要なんだ」

「フッ、面白い。そんな本が必要ですか? 笑わせてくれるものです」

「? お前も読みたいんじゃないのか?」


 彼女は鼻を鳴らす。不遜に、不敵に、見下すように、笑った。


「読みたい、というのは正確ではない。我は読んで貶したいのです、貶めて、腹の中で大笑いしたいのだよ。よもやそんな俗書を、読みたいと思われるとは心外です」


 我、って言ったか、こいつやばい。


「お前ヤバいな」


 それに友達も居ないのだろう。だからこんな本に手を出そうとしている。


 これ以上関わるのは面倒だし、何よりもうちょっと怖くなって来たので、本を渡して逃げようとも考えたが、気が付くとそんな率直な感想を口にしていた。


「なっ……ここが聖域でなければ、今すぐ我が愛器──ハートブレイカーで粉砕していますよ。今すぐに頭を垂れろ。このパンピーが」


 だめだ、やっぱり本を渡して逃げよう。ぶっちぎりでヤバい奴だ。


「ごめん。これは渡すから許してくれ」

「……ふん。良いだろう。さっさと寄越しやがって下さい」


 その時、ほんの少しだけ、悪戯心が芽生えてしまった。


 だからほんの少しだけ、本を高く上げた。僅かに手が届かないくらいのそんな高さまで。


「っ……卑怯な手を」


 爪先を目一杯立たせて、腕を伸ばして、懸命に頑張るその姿は、


「可愛い」


 小動物にも似た愛らしさに、ついつい意地悪してしまいたくなる。何度も挑戦するその姿はとても可愛らしい。というかこんな事をしている俺は、変態そのものじゃないか。


「っ……気持ち悪い事を言わないで下さい!」

「ごめん。もうやらない」

「……」


 そう言って、ポンっと、彼女の頭上に本を乗せた。


「これはお前に渡す。読み終わったら戻してくれ」


 素直に乗せて、渡した。


 彼女は手を伸ばし、本の両端を掴むと、カバーで顔を隠す。照れているのか恥ずかしいのか、そんな感じだろうと思っていた。そう思っていたのだが、


「どうしてこんな事をするのですか」


 と、理由を尋ねられてしまった。


「……小さくて可愛かったから」


 色々とデカくて可愛い鳴子と喧嘩してしまった後だから、だろうか、色々と小さくて可愛い彼女をいじってしまったのは、案外そんな理由だったかもしれない。


「小さくて、可愛い、ですか。それは誰から見て、小さくて可愛いのですか」

「……気を悪くしたなら謝る」

「お前から見て、小さくて可愛いかったのでしょう。自分本位で安易で簡易な、痩せた思考。全くもって気に入らない」

「悪かった。褒めたつもりだった」

「つもり、と言いましたね。誰から見て、褒めたつもりだったのでしょう」


 堂々巡り、どうあっても俺は悪者。知らず知らずに気付かずに、俺は彼女の気にしている事を言ってしまったようだ。誰しも抱えるコンプレックスを、俺は言ってしまった。彼女を傷つけてしまったのかもしれない。


「お前から見て、褒めたつもり、だったのでしょう」

「……ごめん」


 だから素直に頭を下げる。彼女が小さい事を気にしているように、俺にもまた気にしている事があるのだ。だからこそ、傷付けてしまったのであれば、頭を下げるのは当然。


「謝れるだけマシ、ですが過去は消えませんよ……私は、お前らパンピーが茶化して良いような存在ではないのです」


 そうして返って来たのは──地を這うような、低く滑る恫喝にも似た声色。


「罪は消せません。受け入れたところで、頭を下げたところで、何も変わりない……私は、下賤な生き物であるお前らが、虐げて良い存在ではないのですよ」


 背表紙から、彼女の片目が覗く。鋭く尖った、穿った視線。


「汚くて意地悪で意地汚くて狡猾で貪欲で冷酷なお前ら如きが」


 突然、何かのスイッチでも押されたかのように、豹変したのだ。


「……ほら、聖域なのに──来ちゃったじゃないですか」


 彼女の言っている言葉、その言語としての意味は分かる。しかしその内容は全く理解出来なかった。彼女がそう言って──真横へと視線を向けた理由も、興味を失ったかのように手にしていた本を、床に落とした理由も、俺には何も理解出来なかったのだ。


 頭を上げると、彼女は俺を見ていなかった。


 だが、俺は彼女の動作を全て見ていた。


「見えないクセに、知らないクセに、まるで自分が世界の中心かのように振る舞う。たかが一匹の人間の分際で、何様のつもりですか?」


 彼女の激情を眺める事しか出来なかった。


 きっと、何も見えなければ、知らなければ、彼女の言葉を笑っていただろう。


 だけど俺は一ミリたりとも笑う事など出来なかった。それだけの理由を彼女は手にしていたから。余りにも見覚えのあり過ぎる理由を。


 彼女は腰を落とし、体を低く屈めた。そうするだけの理由があるから。


「どうせ見えないでしょうが、しかと目に焼き付けて下さい。我が愛器──ハートブレイカーは、貴方の心を撃ち砕きます」


 彼女は呼吸を整えると、掛けていた指を引いた。


 片目だけを覗かせているのは、スコープを覗くのにそれで充分だからだ。指なしグローブを填めているのは、擦れを防ぐ為だ。


 ──チョーカーは、ちょっと分からない。


 黒く、どこまでも長く、伸びた銃身。鳴子のものとはまた違う。


 ドォンッ、とそんな音、だったと思う。


 その射撃音は、以前に聞いたよりもずっと重く、深く、広い。弾けるというより、沈むように響く音。ゲームやアニメの知識を信じるならば、


 その特徴は──狙撃銃。スナイパーライフル。遠隔射撃用であり、こんな図書室でぶっ放して良いものではない。こんな少女が手にして良いものではない。


 


 これが中二病に罹り、中二病を自称する彼女──雨木代御伽うきしろおとぎとの出会い。陽衣鳴子に続いて、実に二人目の武器を抱える女の子との出会いだった。

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