第13話 物忘れ

 睡眠不足のせいで瞼と体が異常に重い。それでも朝は変わらずやって来て、何食わぬ顔で通常通りの日常を送らせた。それがより一層溜まった鬱憤を濃くしていく、そんな朝。


「それでそれで? どうだった? って聞こうと思ったけど……聞いても良いのかな?」


 首を傾げると、顔を覗き込む彼女の姿が視界に入った。出来るだけ顔に出さず、心底で留めていたつもりだが、やっぱりまくりにはバレてしまうのだろう。


 濡れたアスファルトが渇いていく匂いがする。昨日から降り続いていた雨は上がったが、その跡は未だに消え切っていない。


 紆余曲折あり過ぎた陽衣──いや──鳴子、との関係は進展した。知り合いから友達へと、確実に進歩した筈だった。だったはずが、どうにもこうにもまた紆余って曲折してしまったのだ。


「ああ……」

「何があったの?」

「……」


 話しても良いのだろうか、そう迷っているのは話せる内容ではないから、ではなく、話したくないからだった。自分の愚かさが、彼女を傷つけてしまった。話してしまえば、一体どんな誹りを受けるのだろうと想像するだけで居た堪れない。


「ぶ」


 両頬が、柔らかい感触で、包まれた。


「話して」


 まくりがこちらを見ている。手を伸ばしている。俺の頬を、その掌で挟んでいる。真剣な眼差しが、真っ直ぐに交わされていた。


「……分かった」


 逃げてはいけないのだろう、禍根から目を背けるなと彼女はそう告げているのだ。それに何よりこんな天下の往来で、こんな恥ずかしい状態を続けているわけにもいかないから。


 記憶を掘り返すと、また、あの降り止まぬ雨音が聞こえた気がした。







「あーあ、なんかアタシさー、アンタの前で泣いてばっかじゃん!」

「2回だけじゃないか?」

「充分多いっしょ、それ」


 陽衣は口を尖らせる。恥ずかしいのか、それとも苛立っているのか。


 もうどれだけの時間を、ここで過ごしただろう。時刻を気にしていたわけではないので、相応の時間が経っているとは思うが、一瞬の事だった気もする。


 俺が自身を語り、彼女もまたそれに応えてくれた。直接の言葉は無かったが、それだけで充分に理解出来る。


 凡そ1年ぶり──クラスメイトと、友達になったのだと。


 雨はまだ止む気配がない。それでも彼女の表情はそれと対照的だった。まあ何はともあれすっきりした、という事だろう。陰鬱な景色とは違い、心はとても晴れやかだった。


「……今日はもう帰ろっか」

「そうだな」


 豪雨。教室に溜まっている生徒も多いだろうし、日が落ちる前に帰宅が無難か。


「あ、あとさ……このあと、行ってもいい?」

「? どこに」

「……アンタの家」


 ──帰宅って、そっちに? 


「別に嫌ならいいけど」

「少し動揺しただけ」


 少し間が空いてしまったからだろうか、彼女はぷいっと顔を背けてしまう。一々可愛げのある仕草をするものだと感心するも、慌てて訂正した。


「構わない。行こう」


 本日は彼女の誕生日、そんな日に一人で寂しい思いをさせるわけにはいかない。だってもう──友達になったのだから。友達の誕生日を自宅で祝う、何という甘美な響きだろうか。家族やまくり以外でそんな如何にも楽しそうな行事、見逃す理由もない。


「あっそ。別にホントに嫌なら全然これっぽっちも気にしてないんだからね」


 そんなテンプレートツンデレ発言を口から零した彼女は、立ち上がると、スカートに付いた滴を払って落とす。


 何も言わずに踵を返し、校舎の中へと向かうその横顔は、確かに笑っていたと、そう思える。そう信じられる。

 

 未だ雨は止まない。


 陽衣の後ろ姿を見ながら、無意識の内に笑みが溢れた。──友達、友達だ。もしSNSをやっていたなら今すぐにでも『友達出来たなう』と呟きたい衝動が押し寄せる。無論そんな事を呟けば返信は『ぼっち乙』とか『詳細キボンヌ』とかそんな事だろうが、それでもいい。誰かにこの気持ちを伝えたい。母さんと父さんには報告しよう。


 あとは、まくりと……姉さんには……いや、やっぱりやめておこう。


 玄関に着き、下駄箱から靴を出すと、ふと彼女を見て思い付く。


「何か欲しいものはないか」


 誕生日プレゼントの事を何も考えていなかったではないかと。


「……だーかーら、気ぃ遣わなくていいって」

「俺があげたいんだ」


 それに友達の誕生日を祝うのは、当たり前だろう。それともリア充の世界では当たり前の事ではないのか。何かにつけて徹夜だ、オールだ、とイベントをやりたがる戦闘民族、姉さんからはそう聞いていたのだが。


 彼女は無言で靴を履き替え、その後、小さく溢した。恥ずかしそうに照れ臭そうに聞こえるか聞こえないかくらいで、呟いたのだ。


「てか、もう……貰ってるし」

「?」


 辛うじて聞こえた言葉と、全く身に覚えのない内容。必死に脳を回転させるが何かをあげた覚えが一切ない。


 もしかして、それは『君の笑顔が一番のプレゼントさ』とか『こうして一緒に居る時間そのものが贈り物』とかそういう意味だろうか……自分で考えていても恥ずかしくなって来たので、まさかそんなロマンチックなことではないだろう。しかしそうなると、いよいよ本当に身に覚えがない。


「とにかくもう貰ったの!! ほら行くよ──歳平」

「あ……」


 恐ろしく早い一言、俺でなければ見逃していただろう。


 あれ屋平だっけ歳平だっけ、そんな疑問が一瞬で駆け巡る。彼女が口にしたのは確かに名字ではなく、名前の方。


「今、名前」

「い、いいじゃん! 別に……」


 誕生日プレゼント、もう貰ったし発言。そしてこの反応。総合して考えると、それはつまり『誕生日プレゼントは友達になってくれたこと』的な感じだろうか。


「意外にも、ロマンチスト」

「な、なに!? なんか文句でもあるっての!?」

「別にない。だがちょっと照れた」


 まさかの乙女思考回路を発揮され、心音が激しく波打つ。もしかしたら彼女は、自分以上に関係の進展を喜んでいたのかもしれない。それこそ小っ恥ずかしいくらいに。


 見た目と裏腹な可愛い一面は理解出来た。だが、やっぱり彼女は見た目通りギャルなのだ。クラスの奴らとも遊びまくっているらしいし、名前一つで、そんなに舞い上がってしまうものだろうか。化け物や銃の件を抜きにしても、妙な違和感を感じてしまう。


 しかし現時点では、それに対する回答が浮かばなかった。


「ならそういう顔をしなっていつも言ってんじゃん」

「ニヤニヤしている俺の顔を見たいと思うか」

「……やっぱそのまんまで」


 いや、まあでもいいか。彼女が嬉しいなら、それで充分だろう。


 そう彼女が──陽衣が嬉しいなら。


「……あ」

「ん? なに? どうかしたん?」

「い、いや、な、何でも、ない。何でもない。全然何でもない」

「?……まあ、それならイイけどさ」


 そんな時、そんな高揚を一発で吹き飛ばす、ある一つの決定的で致命的な事が脳裏に浮かんだ。浮んだが、どうにも思い出せない、そんな逼迫した状況。ヤバイ。なにがヤバイって凄いヤバイ。考えろ考えろ。一体今まで何をしていたんだ。


 宿題を忘れたとか、スマホを忘れたとか。


 彼女の出会いと関係には、いつもそれらが付いて回っていた。いつだってそんな──忘れ物が状況を動かしていたのだ。しかしこれはマズい、この──忘れ物は、うっかりでも後悔しているでも済まされない。それもこんな状況では絶対に。


「ね、歳平……アンタもさ、呼んで良いよ──名前で」


 彼女の──名前を忘れた。陽衣と呼びすぎて、肝心の名前を覚えていなかったのだ。しかもどうやら今、彼女はそれを待ち侘びている様子。


「あ、ああ……」


 思い出せ、陽衣、陽衣、何とか──子だった気がする。ヤバイヤバイ、全然出て来ない。そうだ、おっぱいを見ろ、あの時はそれで思い出せた筈。


 何度見ても大きい、ではなく名前だよ名前。大きい、二つ、の果実、ではなく。たわわに実った巨峰、ではなく、脂肪の塊、じゃない! 駄目だ幾ら連想しても名前に関連するワードが何一つとして出て来ない。本当に俺は馬鹿なのか。こんな時まで何を考えている。


「あのさ……何でアタシの胸ばっか見てんの?」

「っ、あ、ごめん」


 鋭い目線。


 汚らわしいものを見るように、軽蔑するように、侮蔑するように、そんな目線が全身に突き刺さる。嫌な汗でじっとりと背中が湿っていく。


「もしかして名前が思い出せない、とか、じゃないよね? まさかそんなことないよね? ねえ、何で黙ってるの? もしかしてアンタって馬鹿なの? 撃ち抜いていいの? てかもう撃ち抜いていいよね? 黙ってるってことはそうなんだよね? 文句ないよね?」

「い、いや、違う」

「何が違うの?」


 据えられた視線と、雰囲気がグッと冷える、下がっていく、背筋が凍る。


 もうこれは正直に答えるしかないかもしれない。というか仕方が無いじゃないか、だってずっと苗字で呼んでたんだから。そうだよ、正直に答えれば笑って許してくれるかもしれない。いやもう絶対許さないとそんな感じなのだが、万が一で許してくれるかも。


「いつも陽衣と呼んでいたので、ど忘れした」

「違くないじゃん」


 一蹴されてしまった。


「……ま、別にいいけど」

「いいのか?」

「ただちょっと、アタシ達の関係について考えさせてもらいますんで」

「ま、待ってくれっ」

「そんなわけで、今日はこのまま帰らせてもらいますんで」

「は、はる……あ」


 焦っていた、だからそんな時にふと口から出てしまったのは、やっぱり彼女の苗字。そしてそれが彼女をより一層冷めさせていく。


「……じゃあね──歳平さん」


 返す言葉もないとはこの事か、だって知らないのだから返す事など出来ない。去っていく彼女へ伸ばせる腕も、その勢いを失っていく。一人残された下駄箱で、耳につく雨音と、残った最後の言葉が踏み出す足を止めていた。


 

 彼女の名前が──陽衣鳴子だと思い出したのは、それから10分も経たない内だった。

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