第8話 泣き笑う
視界が滲めば分かった筈だ、喉が締まれば分かった筈だ、呼吸が引けば分かった筈だ。
それでも、自分が泣いている事に気が付かないのは、自分の事が見えていないから。他者の視線や自分がどう見られているか、そんな事ばかりを気にしているから、気が付けない。
笑っているから、泣いている事に気が付いていない。
「……え?」
「そんな顔をしている陽衣を返したら、俺は母さんに殺される」
「……男なら、もう少し気の利いた言葉で慰めてよ」
彼女は目元を拭うと、手の甲についた滴を見てまた笑っていた。
「あ、ホントだ。アハハッ、あ、はは……は……」
そうして彼女は笑い、泣いている。瞼が赤く腫れ上がっても擦り、また腫れながら、擦り、笑い、泣いていた。
「ぅぅ……くっく……く……あは、は……ああ」
押し寄せる波を留める術を知らないのだろう。一度決壊してしまえばそれはどんどん溢れ出す。それはやがて溜め込める量を大きく超え、遂にはその頬を伝い、流れて行った。
「なんで、なんで、アタシ……泣いてるんだろ」
「分からない」
彼女の言う通り、気の利いた言葉を言った方が良いのだろうが、生憎全く思い付かない。『大丈夫だよ』とか『僕が側にいるから』とか『俺が守ってやる』とか、そんな言葉は兎にも角にもこの状況に似合っていない気がする。
それに何より、俺は彼女の事を良く知らない。泣いている理由も抱えているものも。そんな彼女に俺が掛けられる言葉は何もないのだ。
「これ使え」
今出来る事と言えば、こうしてティッシュを差し出すくらいだろう。
「……ありがと」
「おう」
──まさか素直に感謝されるとは。普段あれだけ失礼な奴だ、恐らく相当弱っているに違いない。何とか元気を出してもらう方法は無いだろうか。
「……カレー、食うか?」
「それ、気を利かせてるの?」
そうして暫く、彼女が泣き止むのを黙って見ていた。
結局彼女が家に来たのは、総合して考えると俺を心配していた、という事になる、と思う。確認と連絡先の交換とは、彼女なりに身を案じた結果なのかもしれない。俺が化け物かもしれないと、化け物に襲われるかもしれないと、そう考えたのだろう。
結果として自分については、何も分かる事は無かった。しかし彼女の状況への理解は出来た。化け物は周囲を満遍なく襲っているわけではなく、武器を持つ彼女だけを的にしている。そんな状況は確かに、誰にも理解する事は出来ない。
彼女との繋がりは──やはり化け物と銃。そんな関係は勿論全然、望むところでは全くない。が、彼女の立場になって考えてみれば、これは貴重なものではないだろうか。そんなものを俺が嫌だからと言って、断ち切っていいわけがない。
やはり、普通の友達ではいられないか。とっても非常に残念だが、彼女がそれで元気になるのであれば、別にそれで良い。その方が良い。
無言のまま、静寂に包まれた部屋の中で、陽衣が落ち着きを取り戻し始めた頃。
「……」
「……」
沈黙に支配された雰囲気で、俺は凄く困っていた。
気の利いた言葉も掛ける言葉もないと、そう思ったが、本当に何も思い浮かばなかった。映画とか漫画とかであれば、こう、抱き締めたりとかするんだろうか。
しかし彼女とはそんな関係どころか、せいぜい知人レベルであり、友人ですらない。そんな状況で体に触れたりしたらそれはただの犯罪だ。
頭を悩ませる、いや本当はその大きな胸に飛び込んでみたい気持ちもあるが、それは流石に出来ない。寧ろそんな度胸が俺にない。
「……屋平」
そんな時、ありがたい事に彼女が先に口を開いてくれた。煩悩が一瞬で消え去り、思わず感謝を述べたい衝動に駆られる。
「何」
「今日見た事は、全部忘れて」
「無理だ」
「分かったって言えばそれで済むから!!」
「分かった」
「……やっぱ、ちょっとそこに立て!! 撃ち抜いて記憶ごと消し飛ばす!!」
「やめろ」
──良かった、いつもの様子に戻ったようだ。
「……」
と思ったのだが、彼女は何とも素っ頓狂な顔でこちらを見ていた。流石にその理由が分からず、首を傾げてしまう。また何か泣きたい事でもあったのだろうか。
「どうした?」
「いや、屋平って──笑えたんだって思って」
どうやらすっかり調子を取り戻しようで、いつもの失礼さにも拍車が掛かっている。この女は俺を人造人間か何かと勘違いしているのか? というかそもそも人造人間だって笑うだろう。俺だって悲しかったり辛ければ泣くし、楽しかったり嬉しければ笑う。
あれ──今、何が嬉しくて、何が楽しかったんだ。
「あ、ごめん……ただちょっと驚いただけっていうか、別に深い意味とかないから」
「? どうして謝る」
「え、あれ、落ち込んだんじゃないの?」
「違う」
「なーんだ、じゃあそんな顔しないで紛らわしい」
謝ったかと思った次の瞬間には、もう次の矢が放たれていた。
この女は本当に話していて苛立つし飽きない。今すぐにでも、そのデカイ胸にしがみ付いてジャーマンスープレックスを掛けてやりたいよ全く。
しかし何はともあれ元気は出たようだ。これなら帰しても母さんに殺される事はないだろう。
立ち上がり、枕元で眠っているスマホを手に取ると、テーブルの上に置く。
「連絡先の交換。俺にはよく分からないから」
「……あっそ。アタシにやれってことね」
「頼む」
「……カレー食ってけって言ったくせに」
「食べたかったのか」
「べつにー。疲れたしさっさと帰りたいしー、アンタも帰って欲しいみたいだしー」
「そんな事は言っていない」
寧ろ泊まっていって欲しいのだが。
確かに元気は出た筈なのだが、何故だろう、機嫌を損ねている。ぶつぶつと文句を垂れ流しながら、口先を尖らせていた。必死に頭を抱えるが、彼女が苛立っている原因は不明。
連絡先の交換を一任したことが気に食わなかったのだろうか。しかしそれは申し訳ないが頼むしかない。動画を見るか目覚ましとして使うか、それ以外の用途ではあまり触れないのだ。設定や家族の連絡先も、全て姉さんにやってもらった。
というかそもそも交換して、俺は上手く扱えるのだろうか。
「はい、終わり」
「……助かる」
「じゃアタシ帰るから、なんかあったら連絡してもいいよ。返すかは気分次第だけど」
「それでは困る」
「知らんし」
彼女はカバンを担ぐと、ご機嫌斜めなままで部屋を出て行こうとする。
何がそうさせているのか知らないが、まだ帰ってもらっては困る。俺は伝えるべき事を何も伝えられていないのだから。
「陽衣」
「……何?」
呼び止めると、彼女はドアノブに掛けていた手を止めてくれた。だが、決してこちらを見ようとはしなかった。孤独に戦うにはあまりに頼りなく、小さい背中。荒い気性なのだから、せめてその背中で語って欲しいとも思える。だが今は何も読み取れる気がしない。
ならせめてこちらから語ろう。心を開いてもらうには、まずこちらからだと、そう朝に決意した。彼女との関係が、化け物でも良いと、そう決めた。
「いつでも家に来い。明日でも明後日でも毎日でも良い。愚痴を言いたくなったらいつでも来て良い。スマホは苦手なので、出来れば直接話したい」
彼女は、一人で戦っているのだから。喜んで愚痴くらい聞こう。
「……プッ」
「どうして笑う」
「べっつにー。たださ……気の利いたこと、言えるじゃん」
彼女は振り向き、笑ってみせた。それは今まで見てきたどれでもなく、清々しくもなく、やってやったぜ感もない、ただの──何でもない笑顔だった。
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