第2話

 あたしと姉には忘れられない日がある。

 あたしの15歳の誕生日。



 母は、クリスマスの次の日にあたしをこの世に産み落とした。何ともまあ微妙な日に産まれたものだ。誕生日いつなの?と聞かれたとき、相手に気を遣わせた反応をさせてしまう。あたしは悪くないのに産まれた日に罪悪感を持ってしまう。周りの視線を気にしすぎる癖は、この頃からついたのだろう。

 我が家ではクリスマス会と誕生日会は同時に開催され、その年も例年通り、誕生日当日に家族でお祝いをしていた。

 ただ少し違うことと言えば、その頃から母と父の夫婦関係が悪化していたこと、姉が福島の彼氏の家に行っていたことであった。


 父と目を合わせない母に、ぎこちない父。今まで両親の喧嘩などいくつも見てきた。父が興奮状態で母の首を締めているのを、幼いあたしと姉が泣きながら止めた事もあった。父の大きい足音がリビングから聞こえて来ると始まりの合図だった。姉がいない日に何も起こってくれるなと願いながら、あたしは無邪気に明るく振る舞った。

 微妙な空気の中、クリスマス会兼誕生日会は終わり、気疲れをしていたあたしは、静かに部屋に籠もった。ベッドに寝転がりながら友人からのお祝いメッセージに癒されウトウトしていた。

 

 すると、母が突然、父に何かを言い残しながら部屋に入ってきた。今日は姉のベッドで寝ると言い出した。今まで母が子供の部屋で寝ることなど一度もなかった。

 子供部屋は、10畳の2人一部屋で、真ん中に2段ベッドがあり、ベッドから奥に姉の机、ベッドより手前にあたしの机が置かれていた。

 珍しい母の行動で、なんとなく、父と喧嘩したのだろうなと察した。とりあえず何も聞かず、何も分からない振りをして、うんとだけ返事をした。


「なんだか修学旅行みたいだね」

 この日を境に家族が壊れていく地獄の様な日々の間、明らかにあたしに気を遣ったこの時の母の台詞を忘れることはなかった。


 しばらくして父が部屋を訪れ母を呼び出した。ドアの前で何かを言い合っている声を聞きながら、毛布に包まっていた。

 親の喧嘩なんて今まで散々聞いてきただろう。このくらい、このくらい、そう思っても、誕生日というだけであたしはいつも以上に滅入っていた。そして何より姉がいないことが心細くて仕方なかった。あたしが親の喧嘩の声で起きるより前に、姉はあたしの側であたしを守ってくれていた。

 その姉が今日はいない。

 段々とエスカレートしていく親の喧嘩。

 いつも優しく微笑んでくれる母の甘い声も、何もかもを許してくれる父の声も、そこには存在しなかった。女と男の喧嘩でしかなかった。

 15歳のあたしにとってただの女と男になった親の声は強烈だった。

 膝を抱え、右耳をベッドに強く押しつけ、左耳を両手で塞ぎ、必死に叫び出しそうなのを堪えた。全身が熱いのに寒い。爪が耳に食い込み血が出たが痛みなど無かった。


 父は、一緒に寝るのも嫌なのか、俺が悪かったから、ごめん、本当に悪かった、といつまでも繰り返していた。

 何となく状況を察した。

 きっと父が、母以外と寝ていたのだろうな、と。


 あたしは1人、2段ベットの下で絶望していた。

 母と父が壊れそうなことに絶望しているのではない。子供の15歳の誕生日に、たった一度しかないこの日に、両親はあたしなんかに目もくれず、自分たちの事だけ気にしていることに絶望していた。母も父もがらんどうだ。ドンっと父がドアを叩いた。何も聞こうとしない母に苛立ったのだろう。あたしがいる部屋の前で喧嘩をしているのが不思議で仕方なかった。聞こえるに決まっているでしょうに、馬鹿なのか、馬鹿なんだな、そう思いながら気を紛らわせていた。

 あたしは2人の荒れた声を聞きながら静かに自分の誕生日を恨んだ。震える手で、顔を横断する涙も拭かず、姉に電話をした。姉はすぐに電話に出てくれた。

 泣きじゃくり、喋れないあたしに姉は察し、家で何かあったのかと聞いてきた。

 2人が部屋の前で大声で喧嘩している、これはもう駄目かもしれない、とうとう終わってしまうかもしれない、しゃくり上げながら必死に姉に伝えた。

 普段は能天気で、ケラケラしたあたしが、死にたいと言ったので、ただ事ではないと気づいた姉が、凄く悲しそうに、申し訳なさそうに、明日の朝一で帰るから、大丈夫、もしまた何かあったらすぐ電話をする様にと言い、電話は切れた。

 

 しばらくして両親が謝りに来た。

 あたしの頭を優しく撫でながら、ごめんな、心配かけてごめんなと言う父の顔は、見ていられないほど切ない目をしていて、たとえ父が悪かったとしても、きっと恨むことなど一生ないだろうと思った。


 あのとき、電話を切った姉はすぐ、母に連絡をしたらしかった。部屋で泣いている、死にたいと言わせたのは貴方達、という脅迫じみた連絡が来たと、後から聞いた。


 遠のいていく母と父の足音に気を配りながら、部屋で1人、姉の大丈夫という一言に身を委ね、あたしは眠った。


 この事件から父の浮気を知らされ、母と姉と3人で暮らすことになり、家族は一度終わりを迎えた。そこからはまるで暗黒期のような日々だった。あたしはまだ幼く、父が浮気していたという事実に立ち向かう術を知らなかった。母は痩せ細り、あたしは空元気。見て見ぬ振りをしたくなる現状に姉は目を逸らさず、細い腕で母とあたしを支えていた。あの時、身を削って守ってくれていた姉はどれほど苦しかっただろう。あの頃の姉を思い出すと、どこに居ても泣けてしまうほど、可哀想な子供時代だった。



 姉は強くなかった。決して強くなかった。家族の決裂で自分だけは折れてはいけない、自分だけは、そんな意志すら感じる姉の責務に気づけなかった。


 

 姉はまるで紫陽花。

 雨に打たれ美しく咲く紫陽花。

 その花には毒を隠し持つ、儚さ。弱さ。

 雨が無くなった紫陽花は枯れていくのだ。



 

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紫陽花の毒 @yukiponny00

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