紫陽花の毒

第1話

 毎日梅雨が明けることを願っている。

 7月半ばにして全く夏を感じていないことに、何故か焦る。

 この夏で命が途切れてしまうかのように、朝起きる度、晴れていることを強く願っている。

 傘に振り落ちてくる雨の粒を、一滴も逃すまいと、アスファルトから香り始めるペトリコールに気を取られながら、祈りのように数え続ける。久しぶりの外の空気が雨なのねえ、世界ですら嫌味ったらしいのね、と1人で喋ってみたりする。

 ガードレールに生えるオオキンケイギクに跳ね返る雨に、道路の窪みに溜まる水の集合に、胸焼けがする。

 空は灰色で、碧なんてどこにもない。ビニール越しの空はもっと霞んでいて、ホームシックのような気持ちに陥る。

 暑い、蒸せるような、焦げた夏を感じる前に死んでいくことを恐れるように、雨を睨む。

 水たまりを避けるように、大股で駅に向かう。


 ホームにでさえ流れ込んでくる雨は寂しそうにあたしの体を伝う。

「苦手なことを克服し新しいチャレンジをする下半期になりそうです」

 気紛れに見た占いは、そんなことばかり言う。

 雨に呑まれたこの世界に新しいチャレンジなんてあるものか。

 携帯についた滴をいとしく思った。雲として生涯を終えたかったかもしれない雨粒がまるで自分のようだ。クスッと笑うと、雨に濡れまいと眉間にシワを寄せた女性が怪訝そうにこっちを見る。あたしは怪しまれるほどの自分の存在に、久しぶりに笑った自分の声に、また笑った。雨と自分を重ねるなんてやっぱり人間可愛いものだ。

 雨を弾き飛ばしながらやって来る山手線に乗る。

 レール通りに進む電車に揺られながら、携帯をポケットに突っ込み、目を閉じる。



 世界的感染ウイルスが流行し、世の中は一変した。どこを歩いてもマスクをしている人間しかいない。密を避けるようにと言われ、在宅勤務になる。テレビも、ネットを通じての収録。自粛中の家での理想の過ごし方、と宣伝する芸能人。

 去年の夏に生きていた誰もが、今の状況を見たら驚くのだろう。たった数ヶ月で色々な事が、一気に変わったのだ。あたしもその渦の中にいる。

 仕事は2ヶ月間休みになり、家にこもり、自粛を心がけた。国に、世界に、ウイルスに監禁されているように、家から一歩も出ることはなかった。


 どこにも行かない選択は、正しい判断のはずだった。外出をしないでと世の中にせがまれたのだから。不要不急の外出は控えろ、と。

 あたしは言われた通りに四角い箱の中に留まった。

 朝起きて、賞味期限がギリギリの食パンを焼くこともなく、そのままちぎって食べた。

 毎日、ただ時間が過ぎるのだけを感じて、息をしていた。働かず、生きていればいい、瞬きをして、二酸化炭素を送り出し、酸素を迎えるだけでいい、理想的な生活を送っているはずだった。


 はずだったのだが、不思議なものだ。


 同じ景色の中に居続けてしまうと、余計な諦観が邪魔しに来る。つまり、見なくてもいい人間を、勢いよく見てしまうのだ。

 あたしは不意を突かれたこの状況が可笑しかった。何もしない時間が増えるということは、そうか、確かに、自分よりも、誰かを構ってしまえる状況に必然的になっていた。

 いつもなら、自分のキャパシティを考え見過ごすものを、全て堰き止めて、まじまじ見てしまった。

 全く同じ状況下に居たら、時間が余るので、普段しないことをしてしまうのなんて分かり切っているはずだろうに、何故気づけなかったのだろうか。

 人間の視界が思った以上に狭いことを、このタイミングで悟ることになるとは、思いもしなかった。



 あたしには姉がいる。

 あたしが小学6年生のとき姉は中学3年生だった。

 姉の様な人を恋愛体質と呼ぶらしいと、働きだして最近知った。


 学校が被っていた小学校3年間、あたしは低学年で、高学年である姉の交友関係を把握するほど自分に余裕がなかった。人間関係を知り始めて苦しんでいたあたしにとって、姉の恋煩いを気にするという考えがなかった。そこまで思考が回らなかった。

 姉が中学生になり、あたしが高学年に差し掛かった頃、姉妹の間で恋愛の話を日常的にする様になっていた。

 あたしが低学年だったので知らなかっただけで、姉は小学生の頃から彼氏という存在が当たり前に居たらしかった。

 姉に彼氏が居た歳と同じ歳になったあたしはというと、片想いをするだけして、誰かの恋人になった事はなかった。

 今思えば、姉はほとほとませていたのだ。


 そこから姉は、怒涛の様に男を取っ替え引っ替えしていた。

 彼氏が居ても、姉の横を狙った男は沢山居た。

 あたしがそこに妬みの一つも感じ無かったのは、姉が綺麗だからだ。線が細く、華奢で、すらっと背が高く、声が鈴の様で、人と話すのが得意。なのに少し口が悪い。そして成績も良い方だった。

 あたしとはまるで違う姉が、異性から人気なのは、嫉妬するよりもむしろ自慢だった。


 姉は、あたしを否定することなど一度も無かった。おそらくあたしにだけでなく、他人に対してでさえ否定することは無かっただろう。

 喧嘩のとき、わざと苛立たせることを言ったり、コンプレックスに感じている事をあえて刺激したりなど、年相応の言い合いはしたが、心からあたしを否定してくることは無かった。

 あたしの感情を、感覚を、誰よりも理解して肯定してくれていた。きっと姉がませていて、受け止める器が周りよりも大きかったので、あたしは心置きなく自分の感性を伸ばせたのだと思う。見かけだけの良い女ではないことを、妹であるあたしが誰よりも知っていたので、自分よりも姉が異性から人気であることを妬むことがなかった。

 それに、おそらく、そういう他よりも大人びた態度も、男を擽るのだ。

 別れて1ヶ月もせずにまた新たな男と並んで歩く姉を、羨ましいなと思いつつ、体力が良く保つなあ、と感心していた。


 そんな姉とあたしに、一度事件が起こった。

 

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