ベートーベンのロンド

増田朋美

ベートーベンのロンド

ベートーベンのロンド

その日は、雨が降っていたが、先日のようなざあざあ降りの雨ではなくて、穏やかに静かに降っているという感じだった。最も、そういう雨に恵まれることは、現在少なくなっている。富士市の市民交流センターの前では、「ピアノマラソン大会開催」という大きな看板が置かれていた。先日、富士市の文化センターがピアノマラソン大会を開催したのを皮切りに、ほかの文化施設が一斉にピアノ

マラソン大会開催に乗り出したのだ。多分、ほとんどのイベントや講座が、発疹熱の影響で中止になっているため、こうして個人でピアノを交代で弾きあうピアノマラソン大会は、格好の収入源になるんだろう。其れも、客を呼ぶわけではないから、その面からでも合理的なのである。

そういうわけで、個人的に参加するのではなく、ピアノ指導者たちが、ピアノマラソンに生徒を送り込むという現象もみられるようになった。ピアノマラソンはコンクールではないので、ピアノ演奏に順位が付くということはないが、少なくとも、演奏技術がある人物が出演することになれば、その人物を育て上げたピアノの先生もすごいということになるから、ピアノ教室の知名度も上がるのである。

桂浩二も、ピアノ教師として、生徒をピアノマラソンに送り込むことをしていた。別に自分の知名度を上げたいという思いはもっていなかった。浩二はただ、生徒さんたちに、もうちょっと自信をもってほしいという意味でピアノマラソンに出場させていた。ほとんどのピアノ教師が、自分の名を上げるために、生徒にすごい大曲をやらせているが、浩二はそんな気持ちは全くない。だからベートーベンのバガテルとか、そんな小品でもまったくかまわないと思っている。大事なことは、生徒さん自身が、ピアノを人前で弾いて、自分ってこんなに能力があったのかと気が付いてもらうこと。浩二は、自分がそんな役目を背負って生きていく人間になって行けたらいいなと思うのだった。

そんな思いをしながら、浩二は客席で、自分の生徒がピアノを弾くのを見ていた。この生徒さんは、普段は掃除人として公園の掃除の仕事をしている。実は彼女もそれしか働き口がなかった。すでに、浩二のところにピアノを習いに来たときは、精神障碍者手帳を所持していた。そういうわけだから、彼女も自分に自信がなくなってしまっている。そんな人たちに、ピアノを弾いているときには、社会のゴミではなくて、一人の人間になってもらいたいと浩二は思うのだった。

彼女が弾いたのは、ベートーベンのロンドハ長調だった。なかなか、よく練習してくれてあって、聴いていて心地よいものだった。彼女が、演奏し終わって、客席に戻ってくると、おめでとう、良かったね、と、浩二は彼女をほめてあげた。演奏し終わったら、二次会があるわけでもないので、すぐに帰ってもよいことになっているが、五人くらいほかの人の演奏を聞いていきたいと彼女が言うため、浩二は、彼女と一緒に、ほかの人の演奏を聞くことにした。

次の人はショパンのバラード一番、その次の人は、ショパンのスケルツオ一番などほとんどのがショパンの曲ばかりを演奏したがる。なんでこんなにショパンという人は、みんな弾きたがるもんなのだろうか。其れよりも、もっと面白い要素がある作曲家はいっぱいいると思うけど。なんて浩二は思いながら、ほかのひとの演奏を聞いていた。何だか、日本中のアマチュアのピアノ界は、ショパンばかりになってしまって、ほかの作曲家の作品を弾いたら、村八分のようになってしまうのではないかと思わせるほど、ショパンの楽曲は人気だった。日本人はどうしても、周りと同じ演奏、きちんと楽譜通り正確な演奏ばかり求めるもんだから、ショパンの曲が並ぶとなると、みんな同じような演奏になってしまうのだった。生徒さんの女性は、みんなうまいですねえというけれど、浩二はだんだんにこういう行事が回数は増えてもつまらなくなっていくんだろうな、と思ってしまうのだった。

「エントリーナンバー16番、佐藤松園さん。曲は、ベートーベン作曲、ロンドト長調です。」

とアナウンスが入って、浩二ははっとする。佐藤松園さんというくらいだから、男性さんなのだろうかと思ったら、出てきたのは女性で、しかも髪が生えていなかった。ちょうど舞台のスポットライトを浴びて、頭が光っているのには、一寸失笑している人もいたけれど、黄色の訪問着に身を包んだ彼女は、そんなことは気にしないという顔をして、ピアノの前に座った。そして、ベートーベンのロンドを弾き始める。先ほどの女性が弾いたロンドハ長調に比べると、のんびりしていて、でも美しいロンドである。確かに、タッチがかなり昔のタッチだなというところはあるが、それでもしっかりリズムは取れているし、キチンとメロディーと伴奏のバランスもとれている。

「はあ、なかなか、うまいじゃないですか。こんなマニアックな曲を持ってくるなんて、一寸変わってますね。」

と、浩二は思わずつぶやいた。隣に座っている女性も、感動したようにその曲を聞いている。

彼女が弾き終わると、聴衆は、ショパンに比べたらさほど興味を示さなかったようであるが、浩二は、この女性に、ブラボーと言ってやりたかった。そんなことをしたら、生徒の女性が、悲しむと思ってしなかったけど。

その人の次に、四人ほど演奏をして、ピアノマラソンは終わった。特に結果発表もないので、そのまま出演者も聴衆も帰っていく。浩二と生徒の女性、つまり、南聡子さんは、すぐに帰るのもなんだか名残惜しいので、カフェテリアに行って、そこでだれがうまかったかなど話していた。その時、ギイとカフェテリアのドアが開いて、例の髪のない女性、佐藤松園さんが入ってきた。佐藤さんは、ウエイトレスに案内されて、浩二たちの隣の席に座った。

「あの、先ほどのピアノマラソンで、ベートーベンのロンドを演奏された方ですよね?」

と、聡子さんが、彼女に話しかける。

「ええ、聞いてくださったんですか?」

穏やかな口調で話す佐藤松園さんは、一寸ほかのひととは、違うなという感じを与えていた。

「はい、私、すごくかっこいいなと思いました。すごい素敵な演奏で、ものすごく、感動しました。ありがとうございました。」

と、聡子さんが言うと、

「ありがとうございます。誰も聞いてくれることもないと思って出場したんですが、聞いてくれた方がいてくれてうれしいです。」

と松園さんはしずかに答える。

「あの、誰かにピアノを習っているんですか?誰かえらい先生にでもついているのでしょうか?」

と、聡子さんが聞くと、

「いえ、今は、先生にはついていないんですよ。だから、すごい変な演奏だったと思うけど。まあ、こういう大会が頻繁に行われてくれるから、モチベーションも維持できるわ。」

と、松園さんは答えた。

「そうですか、おひとりで、あんな演奏ができてしまうというのは、大したものですね。それは、感心してしまいました。素晴らしいですよ。」

浩二はお茶を飲みながら、松園さんに言った。もしかしたら、松園という名前上、特殊な職業についているのかもしれないと思った。

「いいえ、やっぱり先生についていないとピアノはうまくはなりませんよ。単に好きだというだけでは。でも、好きだからこそ、こうしてピアノマラソンにも出ているのだと思うんですけど。」

松園さんは、そういうことを言う。何かわけがある人なのだろうか。そういえば、テレビ番組で駅にピアノが置かれるという内容を放送していたことが在るが、それを弾いている人たちは、みんな訳ありの人ばかりだった。

「あの変なことをお聞きしますけど。」

と、聡子さんが、ふいにそんなことを聞き始めた。

「あの、その髪形といい、もしかしたら、何かわけがあったんですか?」

「ええ、よく聞かれるんですけど、松園とは法名で、得度する前のもともとの名前は、佐藤奈津子だったんです。」

と、佐藤松園さんはにこやかに答えた。

「得度、というと、お坊さんなんですね。お坊さんというと、男のひとばっかりだから、すごく珍しいですね。」

聡子さんが言う通り、尼僧さんというのは近頃はあまり見かけないが、江戸時代くらいまでは、女性が出家することは珍しいことではなかったと浩二は、考え直した。現在はただ、数が少ないだけで、こうして、僧侶になる女性も、まだまだいるということだろう。

「ああ、よく言われますよ。確かに今は女の人が僧侶何て、珍しいかもしれないけど、そういう時は、江戸時代までは結構いたと答えるんです。」

なるほど、浩二が予測したような答えが出てきた。

「そうですか。でも、まださほどお年ではないのに、なんで仏門に入ろうと思ったんですか?」

と、聡子さんが好奇心の目でそういうことを聞いた。

「ええ、本当は、こうなる前には、音楽家を目指して、音大の先生に師事したこともあるんですけど。」

と、松園さんは、にこやかに笑ってそういうのである。

「でも、音大の先生に、出来が悪くて捨てられてしまってね。えらい先生は、そういうことを平気でするのよね。必死で習いに来ているってことを、えらい人は、わかってくれないの。だから結局音楽学校は受験しないで、20代はどこにも行かずに、家に閉じこもって、暇さえあれば泣いてたわ。もうどうしたらいいのかもわからなくてね。自分の居場所は自分でつくれと言われてもわからないし、誰も私のことを理解してくれるような友達もいなかったからね。そんな時に、偶然、仏教のサークルみたいなところに入らせてもらうことができて。それで、講師の先生に頼んで、出家させてもらうことにしたのよ。」

「そうですか。そんな事情があったんですか。それではお辛かったでしょうね。僕も、音楽学校行ったけど、結構音楽学校の先生は冷たかったですよ。偉い人って、そうなってしまうんですね。」

と、浩二は相槌を打った。

「そうなのよね、私は、音楽が好きで、ピアノを習いたかっただけなのにね。それだけだったから逆に悪かったかもしれない。ほかに選択肢もなかったし。だから、それを失ったとき本当にショックで、家族に当たり散らしたりした。家族には、迷惑ばっかりかけて、恩返しも何もできなかった。其れだったら、毎日平和を祈れる身分の人間になって、親に祈ることで償うということができればいいなと思って。そんなことで、許してもらえるかどうかわからないけど、私にできることは、これしかないから。」

「すごいじゃないですか。そういうことをできるなんて、ちゃんと、有言実行している。きっと、ご家族だって、すごく喜んでいると思います。そういう俗世界というか、現実世界を超越した場所にいられるようになったんですから。其れってすごいことだと思いますよ。」

浩二は、松園さんにそういうことを言った。隣の席の聡子さんも、彼女の話を聞いて、感心したような顔をしている。

「でも、ピアノを弾けるお坊様なんて素敵。なんかお寺でコンサートでもできそうですね。」

聡子さんは、うらやましそうに笑った。

「何だろう。ピアノだけは、この頭になっても、切り離せなかったわ。」

と、言う松園さん。確かに、宗教的に言えば、俗世界に何か残しておくことは、ちょっといけないことかもしれないが、それも含めてかっこいいと言えてしまうのはなぜだろう。

「かっこいいなあ。なんか、私、今日のピアノマラソン出て、本当によかった。なんだか、こういう人もいてくれるってことを知って、一寸勇気出たわ。私も、何回も人生を終わりにしたいと思ったことはあるし、なんか、松園さんみたいな人が出てくれて、うれしかった。」

と、聡子さんは、あこがれの目で松園さんを見ている。そんな聡子さんを見て、浩二は、ある事を思いついた。

「あの、もし、よろしければの話ですけど。ちょっと、来ていただきたいところがあるんですが。」

と、一寸、緊張して浩二は言う。

「もし、可能であればですが、大渕の製鉄所という事業所まで来ていただきたいんです。製鉄所と名乗っているのですが、実際は鉄をつくっているところではなく、家や学校で居場所をなくした人たちが、勉強したり、一寸仕事をしたりする場所を提供しているような建物なんです。それでお願いなんですけど、利用している方々の話を聞いてやっていただけないでしょうか。もちろん、カウンセラーをよこすというやり方もあるけれど、彼女たちの話を仏道の概念から、アドバイスしてやれたらと思いまして。」

「あ、ああ、それはいいですねえ。ピアノを弾くお坊さんが、製鉄所に来てくれたら、きっと皆さんも喜びますよ。製鉄所を利用している人たち、私よりももっとかわいそうな人たちですから、確かに喜ぶんじゃないかしら?」

浩二がそういうと、聡子さんもにこやかに笑った。もちろん、聡子さん自身も変わらなければならない問題を持っていると言えるが、製鉄所の利用者たちは、自分よりひどいと言えるのだから、まだ軽い方なのである。でも軽い重いでは解決できないのが、心の問題だった。軽くても解決に何十年かかってしまう人もいるし、重くても意外に単純に解決してしまう人もいる。それはやっぱりウイルスとか、腫瘍などと違って、心の問題では、生きている人間が病原体になっているということがカギになると思う。

「それじゃあ、ぜひ、製鉄所に来ていただけますか?利用者さんたちのほうから、きっと色いろ話しかけてくると思いますが、それを心から聞いてやってください。」

浩二がそういうと、松園さんは、わかりましたと言った。そのあとの日付などは、とんとんと決まった。そういう事務的なことは、意外に早く決まってしまう。だから、それよりも、その内容を重要視しなければダメなのであった。大事なことは、表に出ないが、それをつかみ取れるか取れないかは、個人の感性にかかっているのである。

お互いの連絡先を交換して、三人は別れた。それでは、製鉄所に新しい風が吹きこまれると、浩二も、聡子さんも喜んでいた。

その数日後、浩二と佐藤松園さんは、製鉄所を訪れた。製鉄所が、本当に鉄をつくる場所にあるような雰囲気ではなく、日本旅館のような形をした建物であることに、松園さんはびっくりしていた。

とりあえず、製鉄所にインターフォンは設置されていないため、浩二は玄関の戸を勝手にあけて、

「こんにちは、桂です。」

と、声を少し大きくしていった。出てきたのは、由紀子だった。

「ああ、由紀子さん。理事長か、水穂さんはいらっしゃいますでしょうか。」

浩二がそういうと、

「水穂さんならいますけど、体調が悪くて。」

と、由紀子はそう答えるのだった。由紀子は、浩二が連れてきた坊主頭の人物がどうしても気になるのである。何で、こういう人を連れてくるの?由紀子は正直、宗教的なことは苦手というか、あまり好きではなかった。

「そうですか。また薬を飲んで寝ているんですかね。まあいいや。それでは待たせていただきますよ。利用者さんたちは、どうしていますか?」

と、浩二はそう聞くが、由紀子は答えない。

「由紀子さん、利用者さんたちは、どうしているんですか。」

もう一回聞くと、由紀子はいやそうな顔をして、

「ええ、今、買い物に出かけています。」

とだけ答えた。

「全員、買い物に行ったんですか?まだ残っていらっしゃる利用者さんもいるでしょう。それにこの発疹熱の流行で、あまり皆さん外へ出たがらないのではないですか?」

と、浩二が聞くと、

「ええ、確かに、何人か残っている方はいますけど、、、。」

と、由紀子はちょっと口ごもった。

「一体、浩二さんは、何をするつもりなんですか?」

浩二は、先日カフェの中でこの人に会ったいきさつを話して、誰か悩みごとのある利用者がいれば、この人に聞いてもらってはどうかと思って連れてきたと話した。確かに製鉄所には、悩みがある人はいっぱいいる。それは確かにそうなのだが、由紀子は、浩二が期待していた反応をしなかった。

「何を言っているの!そんなことは、水穂さんのすることよ。水穂さんから、その役目を取らないであげてよ!」

由紀子は、そういったのである。

「でもねえ、由紀子さん。水穂さんは、もう体も弱ってしまっていて、もう普段通りに動くことはできないんじゃないですか?その代理の人がいてくれたっていいでしょう。それに、製鉄所を利用している人たちは、こういう宗教家の方のほうが、適切な答えを得られて、喜ぶかもしれませんよ。」

と、浩二が言うと、

「そんなこと。でも、あたしは、水穂さんの役目まで奪ってしまうことはしたくないわ。水穂さんはただでさえ、かわいそうな立場なのに、余計に立場を悪化させようなんて、そんなこと、させたくない。」

と、由紀子は答えた。

「由紀子さん、水穂さんの役目を取ってしまうわけではないんです。よくなったらまた、同じ役目をやってくれればいいんですよ。そのための辛抱じゃないですか。それだけのことです。水穂さんは、今の状態では、とても負担何てかけられないでしょう。其れより、安静にさせてあげなきゃ、いけないんじゃないですか?由紀子さんは、そんな水穂さんに負担をかけようとしていることになっちゃいますよ。」

浩二の意見も合理的であったが、由紀子は首を縦に振らなかった。

「だって、水穂さんのことを、ダメな人間としたのは、そこにいる人たちじゃないですか!」

継いでいえばその通りなのだった。仏教では屠殺や狩猟などを嫌う傾向があり、それをしていた人たちを、隔離する政策につながってしまったのである。

「でも、由紀子さん、それは昔の事じゃないですか。今は、こういう人は、貴重ですよ。由紀子さん、そう思いませんか。それに、利用者が抱えていることは、こういう人にやってもらった方がいいと思うし。」

浩二は、由紀子にそういうが、

「水穂さんのことを、そうやって軽くあしらって、、、。」

と、由紀子は、涙を流すのだった。それでは、中に入れてもらえないかなと浩二は思ったが、

「本当にごめんなさい。」

と、松園さんが浩二の隣で、そうつぶやいたので、思わずびっくりする。

「まだ、顔を見たわけではないけれど、私たちに迫害された人がいて、そういう風に言われてしまったのなら、私たちは謝罪しなければならないでしょう。異教徒との共存とはそういうものです。」

このセリフは意外だった。由紀子が予測していたセリフとは違っていた。こういう時はもっとかっこつけたセリフが出てくるのかと思ったが、そうではなく、ごめんなさいという言葉だったからである。

「とりあえず、こっちへ来てくれますか。本人に直接謝ってからにしてください。」

と由紀子は、浩二と松園さんを四畳半に連れて行った。確かに利用者の数は、少なかったので、買い物に行っているというのは間違いではないと思う。

由紀子が、ふすまを開けると、水穂さんは布団に寝ていたのは間違いなかった。でも、その顔は苦しそうで、ひどくせき込んでいた。浩二が、すぐに薬を飲ませなきゃと思って、吸い飲みに水を入れに、台所にすっ飛んでいった。その間に松園さんは由紀子が予測しているような、行動は何も

しなかった。ただ、水穂さんの、せき込んでいる背中を撫でてやっているだけなのであった。浩二が、吸い飲みに水を入れて戻ってくる。それに、枕元に合った粉薬を急いで混ぜて、水穂さんに飲ませる。その間にも、松園さんは、そっと水穂さんの背中を撫でてやっていた。浩二が、吸い飲みを水穂さんの口に入れると、松園さんは、そっと大丈夫ですよ、と、声をかけてやっているだけなのであった。よく聖職者にありがちな、祈りの姿勢をするとか、そういうことは一切しなかった。ただ、水穂さんの背中を撫でてやっているだけなのであった。やがて水穂さんの咳が止まって、薬が回った合図として、水穂さんが眠り始めると、松園さんはそっと、水穂さんの体を布団に寝かせてやって、そっとかけ布団をかけてくれたのである。そのあと松園さんは、水穂さんの部屋にあるもの、つまりグロトリアンのピアノと、ところどころに血痕のついたゴドフスキーの楽譜、そして、近くにあった銘仙の着物を見て、水穂さんのことをすべてわかってくれたようだ。そういう事なんですね、と松園さんが語りかけると、浩二が、ええ、そうなんです。とだけ答えた。

「じゃあ、目が覚めた時、彼が一人ぼっちでいないようにしてあげてください。」

という松園さんに、由紀子は、呆然としていたが、どうしても聞きたい疑問があった。

「宗教家の方なのに、なんで、祈るということをしなかったんですか?」

思わず小さな声で言ってしまうが、発作から解放された四畳半は、水を打ったように静かだった。なので、すぐに、松園さんにも聞こえてしまったようであり、松園さんは、由紀子を見て、にこやかに笑って、

「当たり前のことを当たり前に行うのが、仏道なんですよ。」

といった。



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ベートーベンのロンド 増田朋美 @masubuchi4996

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