第42話 神技の彼方に
雷霆神ゼウスは、確かに地に落ちた。
代名詞である『ケラウノス』を失い、かつて誇った神としての超筋力も、超高速移動の能力も、もはや影を潜めていた。
彼の身体は、傷つき、削られ、力は人間以下――いや、弱者とさえ呼べるほどまでに衰えている。
だが、それでも、彼は神だった。
ゼウスが戦場に立つだけで、空間の空気そのものが変わる。
彼の一挙手一投足には威圧感があり、それは身体的な強さではなく、五千年の戦歴を刻み込んだ存在そのものから発せられる威厳だった。
彼の瞳に宿る黄金の輝きは、一切の迷いを許さない冷徹な意志と、神としての誇りを映している。
その目に見据えられた者は、まるで己の存在そのものが否定されたかのような圧迫感に苛まれるだろう。
戦いは次第に変化していった。
荒々しい力任せの攻防は終わり、静謐な戦場が広がる。
ゼウスの動きは驚くほど緩慢で、体力の消耗を抑えるよう慎重そのものだった。
だが、その一歩一歩には、彼が積み上げてきた戦闘技術の粋が凝縮されている。
相手の攻撃は確実にゼウスを狙う。
だが、その白い線――達人にしか見えない攻撃の軌跡――をゼウスは寸分の狂いもなく捉える。そして、神速ではないはずの動きで、あらゆる攻撃を受け流し、かわし、逆に相手の隙を作り出す。
その姿は、もはや人間離れしていた。
静かに展開される攻防の中、ゼウスの技が繰り出される。
それは、打撃、投げ技、関節技のすべてを網羅するパンクラチオンの究極形。
しかし、そこにあるのは単なる技術ではない。
相手の攻撃の流れを完全に読み、取り込むことで、自らのものとし、次の瞬間にはそれをさらに進化させて相手に返す。
「お前たちの達人の技……見事だな」
ゼウスは低い声でそう呟き、薄く笑みを浮かべた。
その笑みには侮蔑も嘲笑もない。
ただ、敵を評価し、己をさらに高めていく喜びが込められていた。
双方の動きはあくまで緩慢だ。
だが、それは戦闘を知らぬ者が見た場合の話にすぎない。
その一挙一動が、すべて一撃必殺の意図を含み、髪の毛一本の差で死と生が分かれる攻防であることを、戦場の達人たちは肌で感じ取っていた。
「踊っているように見えるかもしれんな……だが、これは舞踏ではない」
ゼウスが微かに呟いたその声は、空間全体に響き渡る。
「これは『技』そのものの神髄……『達人の境地』そのものだ。」
ゼウスはわずかに腰を落とし、さらに深く間合いに入り込む。
その動きは、あまりにもゆっくりとしたものであった――しかし、その結果生まれる次の攻撃が、敵にとってどれほど致命的であるかは明白だった。
周囲にいる者たちは息を飲むしかなかった。
ゼウスの「緩慢さ」に潜む圧倒的な脅威、それは神としての力がなくなったからこそ、技術と意志だけで戦う達人としての究極の姿だったのだ。
鉄貴が低く呟いた言葉が、全員の胸に深く刺さる。
「俺もまたコイツを見誤っていた……今のこいつは神であると同時に、『達人』にも成っていやがる!」
その言葉を裏付けるように、ゼウスの黄金の瞳が冷たく光を放ち、次なる一手のために全身を研ぎ澄ませる。
神であり、達人として進化を遂げた雷霆神ゼウス――彼の脅威は、まだ終わっていない。
ゼウスは、ただ権の肩に指先を触れただけだった。
その触れ方は驚くほど穏やかで、まるで風が頬を撫でるような感触だったに違いない。
だが、次の瞬間、権は激しい勢いで地面に叩きつけられた。
「今……まだ見せていない『寸勁』を撃ち込もうとしやがったな!」
鉄貴が叫ぶ。その声には緊張と畏怖が混じっていた。
「自ら、勢いよく倒れ込まなきゃ……死んでたところだった」
ゼウスが見せたのは、至近距離から繰り出される一撃必殺――山中流の秘技『寸勁』だった。
だが、彼が放ったそれは単なる模倣ではない。
その瞬間、彼は権が未だ披露していない動きすらも解析し、さらにその先の応用技にまで至っていた。
ゼウスの黄金の瞳が冷たく光る。
それは、人間の技術を超越し、未知なる境地を見据える者の目だった。
「まだ見ぬ技……だが、それもまた通過点にすぎん」
低く響く声には揺るぎない自信が宿っていた。
「させるかよ!」
鉄貴が怒声とともに反撃に転じる。
彼が繰り出したのは、触れることなく相手を投げ飛ばす究極技――『空気投げ』。
無数の白い線がゼウスを取り囲むように現れる。
その全てが一撃必殺の軌跡だ。
ゼウスの逃げ道は存在しない。あるいは、そう見えた。
しかし、ゼウスは瞬時に白い線の意味を理解した。
その攻撃を受け流す唯一の方法、それは――「倒れる」こと。
彼は迷いなく、あえて勢いよく地面に身を投げ出した。受け身すら取らずに。
その瞬間、ゼウスの行動に驚愕していた鉄貴の周囲にも、同じように無数の白い線が現れる。
「なんだ……?」
鉄貴は瞬時に状況を悟った。
それは、ゼウス自身が『空気投げ』の技を再現し、さらに発展させて放った反撃だった。
「ヤロウ……触れずに投げる『空気投げ』を、同じ『空気投げ』で返しやがった……!」
鉄貴はなんとか受け身を取ることに成功するが、その衝撃は確実に彼の体を蝕んでいた。
ゼウスの圧倒的な戦闘センスが見せつけられた瞬間だった。
「触れることなく投げる技……『空気投げ』は確かに驚異だ!だが――」
ゼウスが立ち上がり、鋭い視線を鉄貴に向ける。
「技はその限界を超えるためにある、それが神の戦場だ」
その言葉は、鉄貴の心に深く刺さる。
ゼウスはただの達人ではない。
彼は技術を知り尽くし、それをさらに超える存在――「神」そのものだった。
鉄貴の額には冷たい汗が滲む。
「未知の技を……いや、それ以上の境地を……こんな短時間でたどり着くなんて……!」
戦いの場に立つ全員が感じていた。
ゼウスの戦闘は、もはや人間の域を超え、技そのものを新たな次元へ引き上げる行為そのものだった。
神と人間の戦い――その差を見せつけられるような圧倒的な威厳が、ゼウスの全身から放たれていた。
「怯むな!」
正一の叫びが響き渡る。
「ゼウスは既に致命傷を負った身だ!戦いを続ければ、いずれ自壊する!!」
その声は戦場に希望を取り戻すためのものであり、同時に自身を奮い立たせるためのものでもあった。
倒れたゼウスの上に馬乗りになる正一。
その目には恐れを押し殺した覚悟が宿っていた。
しかし、ゼウスは静かに正一を見上げ、口を開いた。
「是なり、我はこの戦いの結果に寄らず、時が来れば力尽きて死ぬだろう」
その声は、全てを見通したかのように冷静で、死すらも受け入れた確信に満ちていた。
「だが、そうなる前に――一人でも多く仕留める」
その言葉は重かった。
単なる執念ではない。
そこには、戦士としての深い信念と、神としての責務を全うしようとする覚悟が宿っていた。
それは正一だけでなく、その場にいる全員の胸に重くのしかかるものだった。
正一が何かを言う暇もなく、ゼウスは腰を浮かせ、まるで力学の理すら支配するような動きで彼を弾き飛ばした。
瞬時に立場は逆転し、ゼウスが正一に馬乗りになる。
その手が、鋭く締め上げるように正一の喉へと伸びた。
それは単なる絞め技ではない。
圧倒的な力と精密さを兼ね備えた動きだった。
その手が正一の喉を掴み、わずかな力で命の灯火を消し去ろうとした瞬間――
「若い命の芽を摘む行為は頂けない」
深明の冷静な声が響いた。
彼の手が貫手の形を取り、ゼウスに向けて振り上げられる。その動きは、獲物を確実に仕留める蛇のように無駄がなかった。
ゼウスの黄金の瞳が細められる。
彼には見えていた――深明の貫手の軌道が放つ白い線。
その線が、命を奪う脅威そのものであることを。
「……見事だ」
ゼウスは静かに言葉を漏らすと、正一の上から離脱した。
その動きには躊躇がなかった。
まるで、一切の感情を捨て去った神の判断そのもののように冷徹で、それでいて威厳に満ちていた。
深明は貫手を止め、ゼウスを見据える。
「あなたの覚悟は計り知れない!しかし、それでも若い命を奪うことは、神と呼ばれる存在のすることではないはずだ」
ゼウスは一瞬だけ、深明の言葉に反応するように眉を動かした。
「それが人間の言う“理”か」
低く、静かな声が戦場に響く。
そしてゼウスは一歩引き、背筋を伸ばしたまま周囲を見渡した。
その姿は、致命傷を負った身であるにもかかわらず、なお圧倒的な威圧感を放っていた。
彼の存在そのものが、戦場の空気を支配していた。
(続く)
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