第35話 黒豚王子は婚約者を救う
あまりに突然の
『よ、四魔将!? ひとりで国を滅ぼすバケモノっていうあの!?』
『ほ、本物か!? なわけないよな!?』
『おいおい本物だったらまずいなんてもんじゃないぞ……グラッセさまもいないんだろ!? 逃げないと殺される!!!』
恐慌状態で席を立ちはじめる観客たち。
『み、みなさま落ちついてほしいデス!』
ロジエが声を必死に張りあげるが、混乱は増す一方だった。
無理もなかろう。
“四魔将”という存在は、戦力的には“七英雄”と同格。禁術である闇の魔力をあつかうぶん、“七英雄”よりも厄介と言ってもいい。
リオネッタの襲来は、民からすれば突然SSランクの災厄級モンスター“エンシェントドラゴン”や“ヤマタノオロチ”が襲来したようなもの。いや、明確に民を害する意識があるぶん、それらよりもタチが悪い。
「ま、まさか……なぜ我が国にこのタイミングで魔将が!?」
信じられぬという表情の国王カストラル。
魔王軍の活動区域は現状ここから離れている。ピシュテルに手がおよぶとしても、遠い未来だと思っていたのだろう。
ちなみに民が浮足だっているこのあいだにも、警備の魔法騎士たちによる猛烈な魔法攻撃がリオネッタに降りそそいでいた。だがリオネッタはそれを表情ひとつ変えず、魔圧で軽々と弾きかえしている。
その圧倒的すぎる魔法防御力は、彼女がまぎれもなく魔王軍最高幹部“四魔将”のひとりであることをまざまざと告げていた。
「お初にお目にかかります、カストラル陛下。国をあげてのお祭りですもの。魔王軍としても微力ながら盛りあげに貢献したいと思いましたの。それではごゆるりとお楽しみください――“
唱えた瞬間。
アリーナの半分ほどの面積の地面が淡い魔力の輝きを放つ。魔力はまるで霧のように変化し、民のまわりへと拡散した。
(“ナイトメアミラージュ”ですって!?)
マリーはその名に聞き覚えがあった。
そしてそれが知識にあるそれと本当に同じ魔法だとすると――非常に、まずい。
『なんだこれ……やばいんじゃねえの!?』
『いや、でもなんともないぞ……?』
『確かに痛くもかゆくもない。もしかして失敗したのか?』
観衆たちはなにも起こらないことをいぶかしげに思っている様子で、あたりをきょろきょろと見回して首をかしげていた。
しかしその直後――
『お、おい……どうしたんだよ?』
『うるせえッ!!!』
ドンッ! という乾いた打撃音。
それが悪夢の始まりだった。
見ると観客が近くの観客の胸ぐらをつかみ、殴りかかっていた。
『……ってえな! なにすんだよ!』
『だまれ! おまえが前々から気にくわなかったんだよ!』
周囲の人間が慌ててとめに入るが、加害者の男はまるで興奮した闘牛かのように暴れくるい、さらに二度三度と拳を振るう。
男の怒りかたは尋常ではなかったが、しょせんは酒場に行けば一日一回はあるだろうただのケンカ。皆そう思っていたはず。
だが事態はそう簡単ではなかった。
(これはやはり……)
気づけばその男だけでなく、闘技場のあちこちで民が興奮して暴れだし、人へと襲いかかる光景が見られるようになっていたのだ。
『このまえ貸した金とっとと返せ!』
『いつもいつも偉そうにしてんじゃねえ!』
『旦那を寝取りやがって! こちとらぜんぶ知ってんだよ!』
数人の話ではない。
数十、数百もの人々が急に凶暴性を増し、まるで理性のタガが外れたかのように、近くの人間へと襲いかかっているのだ。
「まさか……闘技場全体に幻惑魔法を!? ありえん、ただでさえ制御が難しい魔法じゃぞ!? それをこの広範囲に!?」
「あら……だれが闘技場にだけなんて言ったのかしら?」
リオネッタが不敵な微笑をうかべたそのとき、闘技場の外から兵士が慌てた様子でカストラルのもとに馳せさんじてきた。
「へ……陛下、大変でございます! 現在、王都中で暴動や乱闘騒ぎが起こっております! すでに収拾がつきません!」
「なんと……王都全体じゃと!? そのようなことが!?」
マリーはごくりと生唾をのみこむ。
そのようなことが、あるのである。
“ナイトメアミラージュ”は、神や上位精霊といった超常の存在にしかあつかえぬとも言われる第8位階の戦略級幻惑魔法。
超広範囲の人間に“コンフュージョン”に似た幻惑魔法をかけ、怒りや不安といった負の感情を煽って混乱させるという魔法だ。
超広範囲にかけるために人々への効果自体は微々たるもので、実際に効果がかかるのもよくて1、2割のものだけのはず。だが万を超える王都中の民の1、2割が暴れだしているとすれば、王都全体を恐慌状態におとしいれるには十分すぎるだろう。
実際、鎮圧に当たる兵が多い闘技場でさえ収拾がつかなくなっている。そもそも兵にも魔法がかかったものがいる様子だ。
「マリーさま……すぐに避難を!」
「いえ、貴賓席には結界があるから大丈夫。外側からはたとえ竜の一撃を受けてもびくともしないでしょう。むしろ王都中が危険な現場ではここが一番安全なぐらいだわ。わたくしのことはいいから、貴方は民の鎮圧に協力してあげてちょうだい」
かしこまりました、とレミリアは異論をはさむことなく席を立つ。そして警備の兵たちに協力すべく貴賓席を出ていった。
闘技場で暴れる大勢の民を見て、マリーは整った眉をひそめた。
(……セリエさまがいらっしゃれば鎮圧していただけたのでしょうが、だからこそセリエさまを最初に封じたということでしょうね)
リオネッタの幻惑魔法に対抗できるとすれば、七英雄のセリエぐらいだ。彼女がいないとなれば、混乱を鎮めるのは容易ではない。
「とはいえ、この魔法だけならばそれほど脅威ではないが……」
カストラルがそうこぼすのが耳に入る。
確かに“ナイトメアミラージュ”は超広範囲の戦略級魔法ではあるが、効果自体は下級の幻惑魔法程度。被害は実はそれほどではない。冷静に兵で鎮圧しつつ、効果が切れるのを待てばよいのだから。
だがそんな考えを嘲笑うかのように、リオネッタが口を開く。
「……もちろんこの魔法だけでは終わりませんわ。この魔法はほかの戦略と合わせて用いてこそ力を発揮するものだもの。せっかくのお祭りだというのに、これだけではさすがに味気ないでしょう」
カストラルは鋭く目を細め、
「……なにをするつもりじゃ?」
「大したことはありませんわ。魔王軍の大隊をこの王都の近く――ルーランの森に待機させておりましたの。市門は開けはなっておいたから、まもなく彼らがこの王都になだれこんでくることでしょう」
「な……大隊が!?」
あきらかな焦りを見せるカストラル。
平常時でも魔王軍の大隊を迎えうつのは容易ではない。それぞれの魔物への有効な対策を事前に講じてようやく戦える相手なのだ。
それが民が混乱して仲間割れをしているこの状況でなだれこめば、どうあがいても勝ち目はない。それを理解しているのだろう。
「……英雄不在、王都は大混乱。そんななかでわたくしリオネッタと魔物の大群を相手にする余力が、この国にはあるのかしら?」
「くっ、小癪な……」
カストラルはもはや打つ手なしといった様子で歯噛みする。
(このままではまずいですわね……)
このままでは王国が魔王軍の手に落ちる。仮にグラッセやマーリンが王都に残っていて手を貸してくれたとしても、それまでに多くの民が犠牲になるのは間違いなかろう。どうにか策を講じねば。
マリーが必死に思考をめぐらせていた、そのときだった。
「へへへ、マリーさま見~つけた!!!」
「……!?」
突如として声をかけてきたのは、貴賓席にいた貴族の男のひとりだった。
何事かと見ると男の目は血走っており、あきらかに“ナイトメアミラージュ”の幻惑効果を受けて理性が飛んでいるようだった。
(考えが……浅かったようですわね)
マリーは男を警戒して立ちあがりながら、ごくりと唾をのむ。
確かに貴賓席の結界は、外側からの攻撃にはめっぽう強い。だが内側に暴徒が出現してしまえば、無用の長物と化してしまうのだ。
「へへへへへ、近くで見ると……本当にお美しい。俺は夜会で一目あんたを見たときから、あんたをめちゃくちゃにしてやりてえと思ってたんだ。この妖精姫を手篭めにできる日が来るなんて本当に夢のようだ。今日まで生きててよかったなあ」
男は下卑た笑みをうかべ、マリーにじりじりと近寄ってくる。
見ると貴賓席にはほかにも暴れだしたものたちがいて、兵はカストラルの護衛にやっとで助けてくれそうなものはいない。
(自分で……なんとかしなければ)
そうは思うのだが、足がすくんでいた。
マリーは学業についてはウィンデスタール魔法学院でも上位の成績を誇り、魔法も並みの魔法騎士以上に使える才女。
だからたとえ暴漢に襲われても、自衛ぐらいはできると思っていた。『実際にそういう立場に置かれたら恐怖で冷静には対処できないものよ』なんて諭されても、自分ならばできるとたかをくくっていた。
だがいざ眼前に暴漢がせまりくるという窮地に自分が立ったいま、ようやくその言葉の正しさが痛いほどに理解できた。
幻惑魔法のせいもあるのだろうか、その差しせまった状況にマリーの頭のなかは混乱し、真っ白になってしまっていたのだ。
「へへへへへ、信じられねえぐらいスベスベの肌だぜぇ……! この肌も、この美しい髪も……ぜんぶ俺のもんだぜぇ」
マリーが震えて立ちつくすことしかできぬうちに、男はついにマリーの眼前へとたどりつき、マリーの頬に手を伸ばしてきた。
マリーはあまりの恐怖に妖精のごとき美貌の面差しを次第に引きつらせ、ついには瞳にじんわりと涙をにじませた。
怖い。
怖い。
怖い。
ただただそんな感情だけが、ひたすら頭のなかで反芻される。
「……たす、けて」
――ブラットさま、と。
ついには消えいる声でそうささやく。
そもそも彼の試合はまだあとで、彼はまだ闘技場にもいないだろう。そこにいないものの名を呼んでもしかたがない。そのような小さな声なんて届くわけもない。そんなことはわかっていたが、それでもついその名が口をついて出てしまった。
だが男の手がマリーの首元から胸元へと伸びようとした――そのときだった。
「……アガッ!?」
男が吹っとんだ。
まるで竜の怒りを買ってその身に鉄槌を受けたかのように、勢いよく貴賓席の端から端まで吹っとび、地面に叩きつけられた。
(いったい、なにが……?)
涙のベールを視界から手の甲でぬぐいさり、マリーは目を見開く。
気づけば眼前にはひとつの人影があった。
「……気安く触れてんじゃねえよ」
人影はすでに意識のなくなったさきほどの男にマリーに聞こえぬ小さな声でそう吐き捨て、その後こちらへと歩みよってくる。
「殿、下……?」
間違いない。
輝くような銀髪に褐色の肌があまりに似合う美貌の第一王子、マリーの婚約者のブラット・フォン・ピシュテルその人であった。
ブラットはいつものようにおだやかで優しげな微笑をたたえ、
「……遅れて申し訳ございません。ご無事ですか、我が姫君」
まるでブラットのほうがマリーに仕える騎士であるかのようにマリーのそばにしゃがみこみ、そっと手を差しのべた。
そしてそのぬくもりに触れた瞬間、
「――」
マリーの瞳から、宝石のような涙がゆっくりとこぼれおちた。
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