武蔵野の海

きつね月

武蔵野の海

 

 武蔵野には海がある。

 もちろん、地図上のどこを探してもそんなものは見つからない。

 見つからないからこそ、探すのだ。

 ここはそういう場所だ。


 例えば、茹だるような夏の日にあてもなく歩いてみる。

 お洒落なガードレールを横目に国分寺街道をひたすら南へ向かい、ケヤキ並木を超えてさらに奥へ。府中の地から武蔵野を超えて旅立たんとする武蔵野南線の線路を追っていくと、そこに突き当たる。急に空が開けた河川敷。堤防を下り葦の群生をかき分けた轍をまっすぐ進む。蚊が多い。気にしないでまっすぐ進む。台風の時にはここまで水が押し寄せてくるのだろうか、横向きに倒れた草木や流された自転車、タイヤ、缶かん。しかし歩き続けているとだんだんそれらも気にならなくなってくる。

 やがて辿り着いた多摩川は右から左に穏やかに流れている。

 右を見れば南武線と武蔵野南線の鉄道橋が並行して走っている。

 左の方には大きなHに支えられた是政橋が悠然と構えていて、そこを渡れば多摩ニュータウンに辿り着く。城山通りを南に進んだ向陽台のあたりは広々としている。堅谷戸大橋まで歩いていけば、昔巨大な谷戸(丘陵地が侵食されて形成された谷状の地形)だったという名残を見ることができるが、その辺りは武蔵野とは言わないようなので、橋を渡らずに多摩川沿いを稲城大橋の方に向けて歩く。

 「東京は必ず武蔵野から抹殺せねばならぬ」と国木田独歩の「武蔵野」の中にある。これが武蔵野の特徴を今でも示している言葉だと思う。「武蔵野」から百年以上が経ち、当時と比べれば豊かな自然が少なくなった。落葉樹の林にどこでも出会えるわけではないし、散歩をしているときに、ここが谷なのか台地なのかを意識することもない。

 それでも武蔵野の地が、東京から大都市という要素を引いたものであるという構造が未だ変わらないのは、この百年で都市も発展していったからだ。東京は未来に向けて常に進歩している。そんな東京の姿をいつでも一歩引いて眺める東京、それが昔も今も武蔵野なのである。

 多摩川は実際には南武線と同じようなルートを辿り、東京の都市部より下、武蔵小杉や川崎を経由して東京湾に入る。しかし地図で見てみてほしい。この是政橋から稲城大橋を超えたあたりまでの多摩川はまっすぐ都市部を向いている。

 例えば、茹だるような夏の空。蜃気楼。私の目の前にはまっすぐ広がる海があり、その向こうには近代都市のビル群が太陽に白く照らされている。虎ノ門ヒルズ、東京スカイツリー、新国立競技場など…新築の鉄筋コンクリートはいつだって人の心を湧き立たせる。そんな感情のままにこれからもより新しく、より巨大な都市が世界に向けて成長していくだろう。

 しかし今、私がどれだけ前に歩いてもそれらに辿り着くことはない。武蔵野の海から向こうには決して行くことができない。ここにあるのは、海に向かって消えている都市までの道路の名残と葦の群生。水面に浮かぶ睡蓮の葉と、行先の分からない錆びたバス停。町外れ、かつての田園風景と雑木林。透明な時の水に、鏡のように映る明治、大正、昭和、平成の記憶。

 都市が失くした土地の面影だけが海を越えてここまで届く。


 武蔵野の海とは、想像の海である。

 日本各地のどこに居たって何らかの想像はできるが、しかし武蔵野のとなるとそれはどこでもというわけにはいかない。東京であって東京ではないここにいるからこそ見える海があるのだ。

 例えば、なかなか梅雨が明けない雨上がりの夜。ぬるい風と共に玉川上水の遊歩道を一人で歩いていると、足元に幾つもの水溜まりができていて、そこに映った欄干の灯りがずっと向こうまで光っている。自動車がその光に向けて走っていく。そんな景色にふと、夜の海を見ることがある。

 川沿いに続く欄干が、まるで港の灯りのように見える。

 周りの雑木がざわざわ唸っているのが波の音のように聞こえる。

 決して水量の多くないはずの玉川上水に、深くて底のない闇が漂っていて、足を滑らせたら二度と戻ってはこられないだろう。武蔵野の海は、都市が失くした景色を追憶させるばかりではない。それは今の東京にあるからこその苦しみも湛えている。

 私が今見ているのは、都市から海上ををこちらに向けて伸びている幾つもの光のレールである。

 西武新宿線、池袋線、京王線、京王井の頭線、小田急線、東武東上線、都営大江戸線、東京メトロ丸の内線、有楽町線、東西線、JR中央線、埼京線、南武線、武蔵野線……

 百年前から最も変わったものといえば都市だが、そこから伸びる幾つもの鉄道も大きく発展したうちの一つだろう。驚くほど多くの電車が、驚くほど多くの人々を毎日運んでいる。その中に入って、ざっと見渡して、様子の人が多いと思うのは見間違いじゃない。

 東京には人が多い。こんな夜に一人で歩いていたって、そこら中に人の気配を感じるし、全国各地から寂しがり屋が集まってきてその数は増えるばかりだ。

 人は、それぞれがそれぞれの夢を見ている。

 夢と言ってもそれは、実際に目で見たものに脳からの想像を足して頭に描いた景色のことだ。そしてその個人の夢が少しずつ流れ出してできたのが、海だ。人々はそれぞれがそれぞれの場所からその海を眺めている。あくまで想像で、見間違いの海だが、だからこそ正直だ。

 そんな今の武蔵野の海はどう見えるだろう。

 都市から逆流してきて、玉川上水にまで広がったこの夜の海はどんな風に見えているだろう。

 まるで都市の血管のように電車は人々を運び、本日分の役目を終えた彼らは再びその血管に乗って、明日の苦しみの夢を見ながら帰ってくる。そんな景色が今、夜の海にはっきりと見えている。

 どうだろう、どう見える?

 いつまでも都市を眺めているこの土地だからこそ見える景色。

 果てのない夜の海は綺麗で、幾つもの光のレールは輝いていて、それでもそこに諦めの感情を見つけてしまうのは私だけだろうか。豊かで、満たされていて、しかし始まりではなく終わりに向かっている光。だからこそ綺麗に見える、と思ってしまうのは悲観的過ぎるだろうか?


 今から百年後の武蔵野はどうなっているだろう。

 開発が進んで、ここも都心と変わらないようなビルの大群になっているかもしれない。

 意外と変わっていない、むしろ今よりも豊かな自然が増えていることもあり得る。

 人々は活気を取り戻すのか、さらに疲れ果てて感情のない機械のようになってしまうのか、意外とそのまま変わらないでいるのか、今は分からない。

 しかしたとえ百年経ったとしても、武蔵野の海はこの地に在り続ける。

 決して届かない対岸から、変わりゆく東京の景色とそこで暮らす人々の姿を見守り続けているだろう。












 

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