第24話 2階へ
ナルがガラス戸の向こうを確かめて、「何もいないぜ」と言った。
「ま、向こうから1階においでって言うんだからさ。1階までは無事に行けると思おうぜ」
窓のない階段は暗かった。堂々と行くか、と言いながら、ナルは額につけたままのヘッドライトを点灯させ、一番前に立った。
「そうだね」
僕も懐中電灯を再び点灯させ、しんがりに回る。明かりを点けると、階段に赤黒い筋が
、大きな蛇が這ったかのように残っているのがよく見えて、改めて背筋がぞっとなった。思わず目をそらしたとき、ふとアキの顔が目に入った。
アキは桜ちゃんと手をつないで大友さんを見ていた。こわばってはいるけれど、優しい表情をしているように見える。
大友さんはハンカチで顔をふいて、心なしかさっぱりしたようだ。いや、明らかに表情が柔らかい。
(アキはすごいな。お姉さんたちの教育の賜物かな)
僕は考えた。
大友さんには他人に言いたくないことがある。それは総合病院に行かなきゃならないようなことで、小児科と産婦人科と精神科に一気にかからなきゃならないようなことだ。大友さんのお母さんはシングルマザーで、しょっちゅう彼氏が変わる。その中にはいい人もいるだろうけど、悪いやつだっているかもしれない。もう暑いのに桜ちゃんは長袖の服を着ていて、大友さんは大人っぽい美人だし……僕は気が滅入るような想像をしてしまう自分を、後ろめたく感じてしまう。
うちの母さんが知ったら、子供のくせにそういうことを考えるなって言われそうなことだけど、僕たちだって小学6年生にもなって、普通に学校に通ったり本や漫画を読んだりテレビのニュースを見たりして暮らしていれば、この不穏なパズルのピースをなんとなく組み立てることができてしまう。というか、全然できない方がまずいと思う。
そんな話をばっちり聞かされてしまったら、確かに大友さんと気まずくなる。普段から親しかったわけじゃないけど、今日一日で僕は、大友さんのことが友達として好きになっていた。優しくて勇気がある彼女を僕は尊敬していた。
大友さんだけじゃない。さっき、とっさにあんな風に言えたアキのことも、僕はすごいと思った。思ったことがすぐ口から出がちな奴だけど、僕にはできないような気づかいができる。テンパってなければ、だけど。
やっぱり僕も皆で元の世界に戻りたい。でも、問題がある。元の世界を、大友さんが戻ってもいいように変えなきゃならないのだ。
僕は一番後ろからゆっくりと階段を下りながら、大友さんが「異界って何?」と聞いてきたときのことを思い出した。あのとき彼女は相談室から出てきたんだから、抱えている問題について、もう先生に相談しているのかもしれない。そして、もしもその上で本気で異界に逃げ込みたいと思ったのだとしたら……その問題は、先生にも解決できなかったということになる。
もっとも、完璧な解決なんて誰にもできないのかもしれない。少なくとも、すべてを問題が起こる前の状態に戻すことはできない。大友さんにも桜ちゃんにも、きっと傷痕が残ってしまう。
無事元の世界に戻れたとして、僕にできることなんてあるんだろうか?
「おいタツノ、ぼーっとすんなよ」
ナルが急に僕の方を振り返った。
「うわっ、何だよ」
「だって、全然こっちに光当たってないじゃん。さてはなんか考え事してんな」
ナルは大友さんに断って、僕のいるところまで階段を戻ってきた。そして僕の耳元でボソボソとささやいた。
「あのさ、俺たちが何かできるかできないか、それはその時になってから考えよーぜ」
ナルの奴、こっちに背中を向けてたくせに、よくテレパシーレベルで僕の頭の中がわかったものだ。こんなときなのに――僕の両腕には寒さと怖さで鳥肌がびっしり立っているっていうのに、僕はおかしくなって少し笑ってしまった。
「ナルもすごい奴だなぁ」
「ナルもって何? 『も』って」
「お前ら余裕あるなぁ」僕たちの少しを歩くアキがそう言った。桜ちゃんとしっかり手をつないでいる。大友さんはもう踊り場に差しかかっていた。ナルが慌てて先頭に戻っていった。
僕は気を取り直して、懐中電灯を構えた。
踊り場を通り過ぎる。ひどい臭いが僕の鼻をついた。鼻が痛くなりそうだ。アキが「ブェッ」とえずくような声を出したのが聞こえた。
「うおっ」
先に2階に着いたナルの声がした。大友さんが呼びかける。
「どうしたの?」
「なんか、床が変だ。でっかいグミを踏んでる感じ」
僕の足元の階段が終わる。と、これまでの堅い床の感触がなくなって、ぐに、と柔らかいものに足を飲み込まれる感じがした。先に情報をもらっていたおかげで、僕は悲鳴をあげずに済んだ。
「わりと固めのグミだね」と大友さんが言った。さっきから彼女は肝が座りすぎていると思う。
「歩きにくいなコレ」
僕は足元を照らしてみたが、見た目はこれまでの床と変わらないようだ。ただ、感触は明らかに違った。気を抜くと転んでしまいそうだ。
「なんかあって逃げるときにイヤだよな」
ナルがそう言って、ヘッドライトで辺りを照らすように首を動かした。
2階のガラス戸の向こうには何もなく、夕焼けに照らされた広い空間が広がっている。すべてのものが運び出され、ガランとしたその部屋には誰もいないようだった。なのに、僕はその空っぽな場所に、見えない何かが潜んでいるような気がして、どうしてもドアを開ける気にならなかった。そう思ったことを何かに悟られることすら恐ろしかった。
幸い、僕たちのうち誰もそのドアを開けようとはしなかったが、このとき、もしかすると皆が同じことを考えていたのかもしれない。
ガラス戸の前に立って左を向くと、そこには下に続く階段がある。そこから冷気と臭気とが上がってきている。踊り場の向こうは、そこから世界が切り替わったように真っ暗に見えた。
その暗がりを見たとき、僕の中に突然、理由のない、でも絶対的な恐怖が流れ込んできた。
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