第25話 1階へ

 怖いときって、どんな時だろうか。

 厳しい先生に叱られているとき?

 階段を踏み外して、内臓が一瞬フワッと浮く気がしたとき?

 怖い本を読んでいてふと目を上げたら、閉めたはずのドアがいつの間にか半開きになっていたとき?

 自転車に乗って、調子にのってスピードを出したら、曲がり角から車が出てきてぶつかりそうになったとき?

 たったひとりしかいない家族が倒れたと連絡があって、迎えにきた祖父とタクシーに乗って病院に向かっているとき?

 今挙げてみたのは全部僕の実体験だけど、僕が人生で一番「怖い」と感じたのは、藤崎町第一ビルの2階の廊下から下に続く階段を見下ろして、あの暗闇を覗いたときだった。


 ついさっきまでは「皆で一緒に元の世界に戻るんだ! そのためには下に行かなきゃ!」と心に決めていたはずだったのに、あの暗い空間を見たとたん、僕の足は急に動かなくなってしまった。

 怖い。

 どうしてもあそこに、あの先に行きたくない。

 僕は救いを求めるような気持ちでナルを見たけれど、ナルも僕と同じような表情をしていた。こんな顔を見るのは初めてだった。いつも明るくて、時々バカにしか見えない僕の友達のナルは、どこか遠いところに行ってしまったみたいに思えた。

 少し前に立っているアキも、背中しか見えないけれど、きっと同じ思いをしているに違いない。その腰に、桜ちゃんがしがみついていた。大友さんは一番先頭で階段に足をかけ、その姿勢のまま固まっている。

「どうしよう」

 ナルが涙まじりの声で言った。

「どうしよう、なぁタツノ、俺足が動かねー。こんなことあるのかよ」

「うん」

 僕はそれだけ答えるので精いっぱいだった。あの先に行ったら何が起こるのかはわからないけれど、そんなことを考えるのなんてもうどうでもいい。足が一歩も先に進まない。こんなところで動けなくなったらどうしよう。どうなるんだろう……恐怖でだんだん頭が痛くなってきた。いつの間にか喉がカラカラだ。

「声がするぅ」桜ちゃんが呟いた。

「どうしよう、声がする。どんどん大きくなってくよぉ」

 僕にも聞こえた。それは真夏の蝉の合唱のように、何を言っているのかわからない声が無数に重なっているようだった。声は暗闇の中からではなく、僕たちの背後から聞こえてきた。そして、僕たちを包むかのように大きくなっていく。

 桜ちゃんがこちらを振り向いて、悲鳴をあげた。

 僕の首もつられて動く。動かなければよかった。2階のオフィスに続くガラス戸の向こうに、ボロボロの格好をした外国人の男の子が3人立っていた。そのうちひとりは上着を着ていない。無表情な顔の中で目だけを剥き出し、ガラス戸に顔をくっつけて僕たちの方を見ていた。

「わぁー」

 僕と一緒に振り向いてしまったナルが、情けない声を上げた。そのとき、固まっていた足が動いた。僕とナルはアキと桜ちゃん、それから大友さんを追い越し、とにかく2階のガラス戸から離れたい一心で、階段を一気に踊り場まで下った。

 気が付くと、すぐ足元にあの闇が広がっていた。足元から絶望が這い上ってくる。

(もう駄目だ)

 頭の中でそう呟く僕自身の声がした。

 そのとき、僕の肩がポンと叩かれた。

 大友さんが、僕とナルの肩に手を載せていた。いつの間に追いついたのだろうか。死人のように真っ青な顔をしていたが、僕たちほどは慌てていないように見えた。

「竜野くんたちはここで待ってて。私が1階に行ってくる」

 大友さんはそう言った。僕は耳を疑った。

「嘘だろ? 大友さん、あの先に行くの?」

 僕が言うと、大友さんは「うん」と答えた。階段の上から、アキの泣きそうな声がした。

「行けんのかよ、あんなとこ」

 大友さんが顔を上げて、アキと桜ちゃんを見た。

「行けるよ。だって、異界に行きたかったのは私だもん」

 桜ちゃんが階段の上から、「おねえちゃん! おねえちゃん!」と叫んだ。

 大友さんは桜ちゃんに微笑みかけた。

「みんなに頼みがあるんだけど」と彼女は言った。

「もしも元の世界に戻れたら、桜を家に帰さないで」

 悲しそうに長い睫毛を伏せて、大友さんは続ける。

「私たちをいじめるの、うちのママなんだ。ママは彼氏ができるたびに私たちのことが邪魔になるの。桜は腕にタバコ押し付けられて、火傷の痕がリコーダーの穴みたいになっててさ、暑いのに長袖じゃなきゃ外に出られなくなった。私はお腹を思いっきり蹴られたときに、生理でもないのに血が止まらなくなって、それで小児科と、産婦人科に行ったの。竜野くん、お母さん言ってなかったかな。私たちを病院に連れてってくれたの、ママじゃなくてママの妹なの。その人も普段は遠くで自分の家族と住んでるから、私たち、あんまり頼れない。おじいちゃんもおばあちゃんもいないし、助けてくれる人って誰なのかわからなかった。それに、彼氏と別れたら優しくなるママのこと、私も桜も嫌いになれなかったの。だからなかなかよその人に相談できなくて……でもママが言うんだよ」

 大友さんの頬に突然赤みが差した。彼女は怒っていた。僕は今まで、誰かがそんなに激しく怒るところを見たことがなかった。

「あんたたちがいなきゃよかったのにって、私と桜に」

 彼女の声は震えていた。「彼氏ができるたびに何度も何度も言うんだよ。それで私は、桜とふたりで、どこかここじゃないところに行けたらなぁって思うようになったの。お願い、ママのところに桜を返さないで」

 僕は大友さんに、何か言ってやらなきゃと思った。何か友達らしいことを。でも、どうしても言葉が見つからなかった。

「竜野くん。1階に行って、聞いてくるよ。元の世界への戻り方」

 大友さんはそう言うと、僕の肩をまたポンと叩いた。それから信じられないことに、笑顔を見せたのだ。

 今日一日、僕たちが見てきたのと同じ笑顔。

「そしたらまた帰ってくるから」

 そう言うが早いか、大友さんは大きく一歩を踏み出した。と、暗い影の中に飲まれた彼女の足は、突然闇に溶けたみたいに見えなくなった。またたく間に全身が影の中に消える。

「おねえちゃん」

 桜ちゃんの泣き声が聞こえた。

 その時、ビル全体が地震のようにグラグラッと揺れ、僕はその場に倒れ込んだ。

 ゴムのような床に手をついた瞬間、上の方で音がした。


 ズルッ、ドスッ……。

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