第23話 秘密でいいよ
手元の紙切れをじっと見つめている大友さんに、ナルが珍しくおずおずと尋ねた。
「大友さんが異界に行きたかった理由ってさ……その、もしかして去年色々あった件?」
それを聞いて、僕はつい一昨日、相談室から出てきた大友さんのことを思い出す。あのとき、彼女は普段と変わらない様子だったけど、本心はどうだったんだろう。もしかしたらあのときも、去年いやな噂を涼しい顔で受け流していたときも、本当はどこでもいいから逃げ出したくなるくらい辛かったのかもしれない。
ところが大友さんはナルに、軽い調子で「違うよ」と答えた。
「あんなの全然平気だよ」
あざ笑うようにそう言って、大友さんは急に僕の方を見た。
「竜野くんは、もしかすると何か知ってるかなって思ってたんだけどな」
「え?」
ナルとアキ、桜ちゃんまで一斉にこっちを見る。そう言われても僕には心当たりがない……
いや、ひとつだけあった。
大友さんにもさっき聞かれたじゃないか。僕の母さんだ。母さんはやけに大友さんのことを気にしていた。病院で会ったと大友さんは言っていたけど……。
「竜野くんのお母さんは、藤見台医大附属病院の小児科で働いてるんだよね。こないだ私と桜、そこにかかったから」
名前を呼ばれた桜ちゃんが、はっと顔を上げて大友さんを見つめる。
どうしてそこに? と、今更ながら僕は気づいて、不思議に思った。もっと早く気づけるはずだったのに、さっきはなぜスルーしてしまったんだろう。
どうして大友さんたちは、わざわざ藤見台医大附属病院の小児科に行ったんだ?
もちろん僕たちは小学生だから、小児科に行くこと自体はおかしなことじゃない。でも、僕は母さんから聞かされていたことがあった。
母さんの勤めている病院は、地域の「なんとかクリニック」みたいな看板を掲げているところとは違うのだ。たとえば風邪をひいたときなんかに、僕たちが行くのは「なんとかクリニック」の方だ。こういう風に、普段病気をしたり、健康について不安なことがあったときに相談できるお医者さんを「かかりつけ医」というそうだ。
もしもその風邪が、実は「なんとかクリニック」では治せない難しい病気だったり、大掛かりな検査が必要になるものだったりすると、その「かかりつけ医」の先生が、もっと大きな病院に宛てて紹介状というものを書いてくれる。その紹介状を持って、ようやく母さんの勤めている病院にかかることになるのだ。母さんの勤める病院――いわゆる「総合病院」は、地域のクリニックにはない特別な設備を備えているし、いくつも診療科があるから、科をまたいでの治療も受けられる。
つまり、健康な子供である僕たちが普通に生活しているうちは、母さんの勤めている病院にお世話になる機会がほとんどないのだ。僕だって、母さんの職場で診てもらったことは一度もない。
大友さん、何か難しい病気をしたのかな? それとも桜ちゃんが?
「藤見台医大は、いろんな科が併設されてるでしょ。内科、外科だけじゃなくて、小児科とか産婦人科とか心療内科……特にこの辺はメンタル系の病院がないから、心の問題があるとだいたいあそこに行かなきゃならなくなるんだ」
そこまで言って、大友さんはぎゅっと口をつぐんだ。まるで、僕には見えない場所に大きな傷があって、今もそこから見えない血が流れだしているような顔をしている。
彼女はひとつ、大きく息を吸い込んだ。言いにくい言葉を吐き出すように。そのとき、アキが突然大声をあげた。
「わー!」
大友さんの肩がビクッと震えた。突然の奇行に、もちろん僕も驚いた。アキのズボンにくっついている桜ちゃんが、大きな目をまんまるく見開いて、アキの顔を見つめていた。
「おーともさん! やめよう!」
アキ、恐怖のあまりおかしくなったかな……僕は一瞬ぞっとしたが、彼の顔を見ると、その心配は的外れだということがすぐにわかった。
「今そういうシンコクな話はやめよう! 俺たちになんでもかんでも話したら、元の世界に戻ったとき気まずいから!」
「アキ、声がでけーぞ」
ナルが慌ててアキの頭をはたいたので、声の大きさは元に戻った。
「ごめん。とにかく、俺には十分必要なことがわかったってことを言いたいんだよ。そのさー、アレだよ。元の世界から逃げ出したいと思うようなことが大友さんにはあったんだよな。そんでさ、それはすごく悲しいことだと思うし、あんまり人に話したくないことじゃないかとも俺は思うし」
大声をやめたアキは、話し方こそカミカミだったけれど声色は落ち着いてきて、いつもよりもっとイケメンに見えた。
「だからもし、大友さんがほんとに俺たちに話したいと思ったら、そのときは話していいよ。でもそんな嫌そうな顔で話すんだったらやめなよ」
そう言われて、大友さんの顔から笑顔が消えた。ぎゅっと唇をかんで、アキのことを睨みつけているように見えた。でもその大きな目に突然どんどん涙がたまり始めて、ぽろぽろこぼれ始めた。
「な? えーと、ナルもタツノもそれでいいよな」
アキは大友さんの涙に少なからず動揺したようで、急にオロオロしながら僕たちの方を見た。僕とナルも驚いていたが、急いで
「もちろんそれでいいよ」
「全然いいに決まってるだろ」
と答えた。
「な、な? ほら、みんないいって言ってるし、無理はよくない」
「ほんとそれな。大友さんは頑張りすぎ」
「おいナル、言うに事欠いてそれかよ」
大友さんは両手で顔を覆いながら、聞き取りにくい声で「みんなありがとう」と言った。いつの間にかアキから離れた桜ちゃんが、キュロットスカートのポケットからハンカチを取り出して、大友さんに手渡した。ハンカチで顔を覆って、ちょっとくぐもった声で大友さんは続けた。
「ほんとはすごく言いにくかったんだ。だからありがたく秘密にしとく」
僕とナルとアキはほっとして、互いに顔を見合わせた。
「おう、そういうことにしといてな。そんでさ……」
ナルがそう言って、改めて天井を見上げる。「これ、どういうことだ? タツノ」
僕も天井を見上げた。あまりじっと見ていたい光景ではなかった。
「日本語にしたら……『こっちにおいで』みたいな感じかな」
「そんであの紙だろ」
僕たちは顔を見合わせた。もうとっくにわかっていたことを、僕たちは復唱した。
「……下に行くしかないよなぁ。やっぱり」
「……そうだね」
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