第22話 3階へ

 僕は口をあんぐり開けて、ナルの紅潮した顔を見た。

「そうか! すげぇよタツノ!」

 アキが満面の笑みで僕に抱きついてきた。ナルもそれに加わり、僕ら3人は団子のようになって抱き合った。体格で負ける僕は、目を白黒させてされるがままになっていた。

「……そうかな? ほんとに……」

 大友さんが不安げに呟く。

「とにかくやってみようぜ。やってみるだけタダだ」

 ナルがそう言った。

 僕たちは床に魔法陣を敷き、屋上でやったようにスクラムを組んで上に載った。半信半疑ながらカナヅチをバッグにしまった大友さんと、真っ青な顔をした桜ちゃんも加わった。

「よし、やるぞ」

 ナルの合図で、僕たちはいっせいに目を閉じた。アキが「元の世界に戻りたいです戻してください」とブツブツ呟くのが聞こえる。僕も必死で「元の世界に戻してください」と祈った。

 でも、心の底では(違うだろうな)と思っていた。大友さんが疑問に思っていた通りだ。あの声がしゃべっていたのはきっと、こういうことじゃない。「誰が願った?」と尋ねているのだ。だから……。

 案の定、どんなに祈っても肌に触れる空気は冷たいままだった。血の臭いも漂っている。目を開けなくても、状況が変わっていないことはわかった。

 どれくらいそうしていただろうか。僕の肩から、大友さんの腕が落ちた。

「……もうやめようよ」

 大人びた声が言った。

 大友さんは見たことがないような暗い顔をして、スクラムの中心から出てきた桜ちゃんを抱きかかえた。眉をしかめ、眉間に深いしわが刻まれている。まるで大人みたいな顔だった。僕は何度か、母さんがあんな深刻な顔をしているのを見たことがあった。

「wish はこういうことじゃないんだよ。願えっていうことじゃないんだ。ね。きっと私たちに質問してるんだよ。『願いごとをしたのはお前たちのうちの誰だ?』って聞きたいだけなんだよ。そうだよね、タツノくん」

 そう言って、真っ黒な瞳で僕を見る。

「え?」とアキが間の抜けた声を出した。「じゃあ、ここでいくら願ってもイミないってこと?」

 そのとき、トイレの中から異様な音が轟いた。

「ギィ――――――――――――!!!」

 それは巨大な爪で巨大な金属板をひっかくような、ゾッとする音だった。これは声だ。今度は僕にもわかった。

 こいつには意志があるんだ。

 いつの間にかその声はやんで、僕たちは耳鳴りを聞いていた。耳をふさいでいた桜ちゃんが半分泣きながら、「声しなくなった」と言った。

 ナルが僕たちの顔を見た。「開けるぞ」

 トイレの中は空っぽだった。個室の中にも誰もいない。

「そうでしょ」

 後ろから大友さんの声がした。ひきつった表情の桜ちゃんの肩に両手を置いて、彼女自身は全身の力が抜けてしまったような顔をしていた。

「あいつ笑ってたもん」

 冷たささえ感じるような静かな声で、大友さんは言った。

「もう行こう。ここには誰もいないよ」

 そして桜ちゃんの手をとると、彼女はガラス戸の方に歩き出した。


 大友さんは僕たちを導くように、どんどん3階に下りていく。その様子には恐怖もためらいもない。僕たちは戸惑いながらも、その後を追っていった。

 3階の部屋には何もなかった。大友さんがガラス戸を開け、中に入る。僕たちも慌ててそれに続いた。

 3階は暗かった。突然窓の外の日が沈んで、血のように真っ赤な夕焼けが室内に差し込んでいた。僕たちの足元には、長い影が続いている。

 まだ日没には早すぎるはずだ。それに、こんなに赤い夕焼けは見たことがない。やっぱり僕たちは異界にいるんだ。ここが僕たちの元いた世界でないことは、今更認めないわけにはいかなかった。

「さっきの話だけどさ」

 こちらに背を向けたまま、大友さんが言った。いつの間にか僕たちは、固唾をのんで彼女の話を聞くようになっていた。

「この中に誰か、本気で異界に行きたいって願った人、いる? 異界を見てみたいとか、行ってみたいとかって理由じゃなくて、もうこの世界にいたくないから異界に行きたいって願った人は?」

 僕はナルとアキの顔を見た。ふたりもこちらを見ている。おそらく、僕たちのうち誰ひとりとして、そんな風に願ったやつはいないのだ。

「もうこの世界にいたくない」なんて望んだやつは、いない。初めから「帰ってくる」ことが前提だったのだ。

「いないよねぇ、普通……まぁ私もダメ元だったけどさ。でも、願うだけだったら何にでもできるから」

 そう言って大友さんは振り返った。

 笑っていた。場違いなほど優しい、そして全てを諦めきったような笑顔を、毒々しい色の夕陽が照らしていた。

「みんなごめんね」と、彼女の唇が動く。

「そんな風に願ったのは、私だけだね。ごめんね」

 なんで、と思った瞬間、ナルが「うわぁ!」と悲鳴を上げた。

「上! 上!」

 天井を見た僕は、ナルと同じように悲鳴を上げた。

 天井一面に文字が書かれていた。真っ黒な消し炭でバラバラに書きなぐったようなそれは、読み取るまでに骨が折れた。

 そこには、「Come to me」という言葉が、いくつもいくつも書かれていたのだ。

「いつこんなになったんだ? 入ったときはこんなのなかったよな?」

 アキが僕に寄ってきて、正面から両腕をつかんだ。

「こんなんあったら気づくよな!? いつの間にまた……」

「キャーッ!!」

 突然、今まで静かにしていた桜ちゃんが、大きな悲鳴を上げ、大友さんに抱きついた。

 僕たちはいっせいに、彼女が小さな手で指さしている方を見た。フロアの隅だ。

 そこに、真っ黒な影が立っていた。

 人間のような形をしているが、頭が天井につきそうなほど大きい。どんな顔をしているのかもわからない、真っ黒な霧を人の形に集めたような影だった。

 僕は悲鳴をあげることもできなかった。喉がこわばって、声が出ないのだ。

「おい!」

 ナルが怒鳴った。

 黒い影は何を言い返すでもなく、電灯のスイッチを切るように、突然ふっと姿を消した。

「な、なんだったんだ……」

 気の抜けた声でナルがつぶやく。

 そのとき大友さんが、影が立っていた場所を指さして、「何か落ちてない?」と言った。そして桜ちゃんをアキに、半ば強引に押し付けると、スタスタとそちらの方に歩いていく。僕には彼女がさっきから、顔がそっくりの別人になったみたいに見えていた。

 大友さんは影がいた場所で何かを拾うと、またスタスタと戻ってきた。

「これ、見てよ」

 そう言って差し出したのは、日焼けして茶色くなった古い紙の切れ端だった。

 そこには下手くそな文字で「1 かイ ニ おイで」と書かれていた。

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