第15話 6階へ

 僕たちは6階と7階の間の踊り場で、それぞれ顔を見合わせた。

「本当に何かいたの?」

 僕がナルに効くと、ナルはうなずいた。

「見間違いじゃなきゃな」

「いや、オレも見たよ!」

 アキが大声で訴えるのを、僕は急いで「しーっ」と止めた。

「そいつに聞こえたらどうすんだよ!」

「ゴメン、でもほんとだって。な、ナル」

 ナルがうなずいた。

「ガラス戸の向こうで、人影みたいなものが動くのが見えたんだ」

「このビルって、無人だって言ってたよな?」

「そうだよ。それに、鍵は俺が持ってる。入り口は、皆が入ったあとにちゃんと鍵かけたはずだぜ」

 ビルの裏口から入ったときのことを思い出して、僕はうなずいた。

「僕もナルが鍵かけてるとこ、見た覚えがあるよ」

「じゃあ、鍵を使わずに勝手に入ってきてる人がいるってこと? 泥棒?」

 大友さんはそう言ってから、自分で自分の発言が怖くなったようだった。急いで隣に立っている桜ちゃんを抱き寄せている。

「泥棒か……何もないビルだけどな……」

「不法侵入の時点でもう犯罪だよ」

「おいおいおい、犯罪者と出くわしたらどうすんだよ」

 アキが落ち着きなくキョロキョロし始める。

「まぁまぁ、落ち着こうぜ」

 ナルが手のひらを下に向けながら言った。

「もーしーかーしーたーら、だけど、普通の人かもしれないじゃん。今度入る解体業者の人とかさ。俺、まず父ちゃんに確認してみるよ。工事のナントカさんに合鍵貸してるよ、なんて、案外あるかもだし」

 ナルはそう言うとリュックサックを下ろして中身を探ったが、すぐに顔を上げてこう言った。

「ごめん、スマホ忘れた」

「またかよ。ちゃんと携帯しろよ」

「ごめんて。タツノ、携帯貸して」

 ナルは僕が、母さんから持たされているキッズ携帯をちゃんと持っていることを知っている。僕はナルに携帯を渡した。

 ナルは電話をかけ、水色の携帯を耳に当てていたが、すぐに怪訝な表情になった。

「変だな、かからねーぞ」

「番号間違ってないか?」

「自分んちだぞ? さすがにないよ」

 アキが横から画面を覗き込む。「これ、電波ないじゃん」

「どういうこと? ここ、街中だよね? 電波が入らないなんてことある?」

 大友さんの声が少し震えている。

「タツノの携帯が調子悪いんじゃないか?」

「そんなことないと思うけどなぁ」

「ほかに持ってる人いない?」

 ナルが尋ねるが、アキと大友さんは首を横に振った。

「そうか……そんじゃもう、俺らであいつの正体掴むしかないな」

 ナルが言った。「どっちみちこの階段下りなきゃ外に出られないし、そのためにはあのガラス戸の前を通らなきゃならない」

「どうすんだよ」

「俺がそーっと見にいくから、お前らはここにいろ」

 ナルは真剣な顔でそう言うと、身を低くしてしゃがみこみ、階段をゆっくり降りていく。

「お、俺も行くよ」

 アキがナルの背中に声をかけた。ナルはガラス戸の方を睨みながら「ダメだ」と言った。

「2人の方が見つかりやすいだろ。アキたちは、踊り場の壁の方に隠れてくれ。最悪、屋上まで逃げて立てこもるぞ」

「わかった」

 僕たちは踊り場の壁に身を寄せ、ナルの行方を見守った。僕のすぐ横で、アキが唾を飲み込む音がした。

 僕はふと思い立って、手の中にデジカメを包むようにしながら、動画モードを起動させた。もしも相手が不審者だったら、証拠があった方がいいと思ったのだ。僕の手の中でかすかに「ピコン」と音がして、録画が始まった。

 そういえば、ナルは登山家みたいなリュックサックを背負ったままだ。あれじゃ目立たないかな? もう遅いか。

 と考えていたらナルが動いた。ダダッと階段を駆け下り、ガラス戸を開ける。

「オイッ!」

 突然でかい声で怒鳴った。打合せとあまりに違いすぎる言動に、僕の全身が固まった。

 ガラス戸の向こうから、返答はなかった。耳が痛いほどの沈黙が返ってきた。

「な、なにやってんだよナル」

 ようやくこう言うと、ナルが紙みたいな顔色をしてこっちを向いた。

「ゴメン、き、緊張に耐えられなくて……」

 頼れるのか頼れないのかよくわからないやつだ。もっとも、僕も相当びびっていたから文句を言う資格はない。

「でもよ、誰もいなさそうだぜ?」

「マジかよ」

 ナルの言葉を受けて、僕たちは階段を下りた。

 ガラス戸の向こうには誰もいなかった。それどころか何もない。捨てられた机も機械も、何も残されていないのだ。ただ、だだっ広い空間がそこに広がっていた。

 僕はカメラを持ったまま、ぐるっと部屋の中を見渡した。

「トイレも見てこようぜ」

 さっきと同じく、ナルとアキが走っていく。幸い、トイレにも誰もいなかった。僕はその様子も動画で撮影した。

「成沢くん、あのドアって非常ドア?」

 僕たちがガラス戸のところまで戻ると、待っていた大友さんがほっそりした指を壁に向けた。そこに取り付けられた金属製のドアに、僕は今更ながら注意をひかれた。

「非常階段のドアだ! 忘れてた」

 ナルが駆け出す。金属のドアノブを掴むとガチャガチャ回すが、そのうち諦めたようにこちらに走って戻ってきた。

「開かないぞ」

「鍵はないのか?」

「ない。つーか、ツマミが動かないんだ」

「壊れたのか? どうなってんだよ」

 僕たちは、今度は非常ドアに駆け寄った。ドアノブのツマミを回そうとしたが、横向きのままどうしても動かなかった。

「何でかな、これ……鍵が錆びてるとか?」

「わかんねーけど、とにかく中からは出られなさそうだな」

 ナルが頭をかいている。「しっかしわかんねーな。確かに何かいたと思ったんだけど……」

 そのとき、桜ちゃんが部屋の隅を指差した。

「なんか落ちてる」

 いつの間に? 僕たちは顔を見合わせた。部屋の中には何もなかったはずだ。

「犯人のか!?」

 僕たちは部屋の隅に殺到した。

 それはクチャクチャに丸められた服だった。赤いチェック模様で、僕よりも少し大きいくらいのサイズらしい。

 アキが拾い上げて広げてみた。

「うわっ、きもちわる」

 そう言いながら床に落とす。その服は右肩から左脇腹にかけてビリビリに破かれ、左肩や胸の部分しか残っていなかった。左の胸元に刺繍がある。それは「A Lrving」と読めた。

「なにこれ、何て読むんだ? アラビング?」

 僕たちは、床に落ちた服の上に恐る恐るかがみ込んで、胸元の文字を読もうとした。

「AとLはくっつけて読むんじゃなくて、名前と名字みたいに離して読むんじゃない? エー、ラービングみたいな?」

 大友さんが言う。

 僕はそのスペルに見覚えがあった。ごく最近見たような気がする。本当に最近、ついさっきくらいの出来事で……。

「あっ!」

 思い出した。さっきナルがリュックサックから取り出して、僕が読み上げた行方不明事件の資料。あの記事に確か、「アレックス・アービング(Alex Lrving)事件」と書かれていたはずだ。あのとき(Lは発音しないのかな)と思ったのを覚えている。

「エー・アーヴィングだ! アレックス・アーヴィングだよ!」

 僕は思わず大声をあげた。大友さんが「えっ」と声を上げて口を押えた。桜ちゃんがその腰にしがみつく。ナルは仁王像みたいに目を見開いているし、アキは顔色が真っ青を通り越して真っ白だ。僕は口から出る言葉を止めることができなかった。

「なぁナル、アレックス・アーヴィング事件って言っただろ!? あの魔法陣を使って、本当に行方不明になった人の名前だよ!」

 流れるようにそう言ってしまってから僕は、「とんでもないことを口にしてしまった」と思った。

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