第14話 なんだか変な感じ
「トイレ、どうだった?」
「便器があった!」
戻ってきたナルが、どうでもいい報告を元気よくしてくれた。
「そりゃ便器はあるだろよ」
アキがその後ろを、笑いながら歩いてくる。
「でも便器と、あとは洗面台だけかな。ゴミ箱はなかったよ」
「そういえば、トイレってまだ使えるんだっけ」
大友さんが言った。さっきのシリアスな雰囲気が嘘のような、気軽で明るい声だ。
「ちょっと行ってきていいかな? 桜も行こ」
桜ちゃんがうなずいた。
そういえば、僕もトイレに行きたいような気がする。今行きたいというか、これから行きたくなるから今のうちに行っておこうという感じだ。それに、誰かが「トイレ行ってくるね」と言うと、つられて行きたくなるのは僕だけではないだろう。
「じゃあ僕も行くよ」
「中は男女別だぞ」とナルが言った。
「わかってるよ! ナルとアキはいいのか?」
2人は顔を見合わせて、「俺はいいや」「俺も」と答えた。男子トイレは僕ひとりか。まぁ、別に怖いことなんか何もないだろう。たぶん。
真ん中に細長い窓のついたドアを開けてトイレに入ると、すぐのところに洗面台があり、奥に個室が2つ並んでいた。片方のドアは赤で、もう片方は青だ。男女別とはいうものの、これではほぼ連れションと変わらない。
僕は大友さんたちと別れて、青いドアの個室に入った。個室には水を貯めて流すタイプの古いトイレがあった。用事を済ませると、僕は早々に個室から出た。
大友さんと桜ちゃんは2人で中に入ったらしく、洗面台のところには僕ひとりしかいなかった。
蛇口をひねると、生暖かい水が出てきた。少し流してから手を洗うことにしよう……僕はふと顔をあげた。
当たり前だけど、鏡には僕の顔が映っている。後ろの壁に、色褪せた「トイレットペーパーは備品! 持って帰るな!」と書かれた貼り紙がまだくっついていて、誰かみみっちい人がいたんだな、なんて考える。
ホラー映画だと、こういう時に鏡に何か映るんだよな……そんなことを考えながら僕は手を洗った。それで、逃げようとしたらトイレのドアが開かなかったりして。内鍵がなぜか閉まってるのに気づかずに、ガチャガチャやってたら背後をとられたりして。
「おっ、冷た」
予想外に冷たくなった水に驚きながら、手をこすりあわせる。水を止め、ハンカチで手を拭いていると、半袖から出ている二の腕にふと冷たい空気を感じて、僕は身震いをした。
(……?)
なんだか変な感じがする。
ちょうどそこで、大友さんと桜ちゃんがトイレの個室から出てきた。
「あっ、大友さん。ちょっと寒くない?」
僕が尋ねると、大友さんはうなずいた。
「うん……ちょっと涼しくなってきたかも」
大友さんも二の腕を擦る。どうやら、桜ちゃんは長袖の服を着てきて正解だったみたいだ。
「うわっ、水もやけに冷たいね」
大友さんたちが手を洗ってから、僕たちは一緒にトイレを出た。外でナルとアキが待っていた。
「おかえりー。じゃあ6階行くか」
「なぁ、ナルとアキは寒くないか?」
聞いてみると、アキが顔をしかめた。
「言われてみれば寒いなぁ。寒いっていうか、思ったより涼しいって感じだけど」
ナルは腕を組んで「そうか?」と答える。こいつは冬でも長袖のTシャツ1枚で登校してくるような奴だから、ナルが寒いと言い出したらいよいよまずい。
「ビルに入ったときは蒸し暑かったよね? 成沢くん、このビルって、エアコンはあるの?」
「エアコンどころか、電気も止まってるはずなんだよなぁ」
ナルが天井を見上げて言った。部屋の奥に、大きなエアコンを取り外したらしい跡があった。
「電気のことはよくわかんないけど、下に向かうにつれて寒くなってるよな? じゃ、下の階にめちゃくちゃでっかいエアコンがあるんじゃね?」
アキが変な仮説を提唱した。
「いや、だから電気が来てないんだって」
「それじゃ、めーっちゃくちゃでっかい氷があるとか」
「誰が運び込んだんだよ! ペンギンか?」
こんな風に言ったらおかしいかもしれないけれど、その時僕にはナルとアキが、必死に冗談を言い合っているように思えた。今までただ楽しく、日常の延長だった異界探検が、思いがけず非日常へと続いていたんじゃないか、というような雰囲気を、僕だけでなく、皆が感じているような気がした。
でもまさか、という気持ちの方がまだ勝っていた。『アドゥネイア呪文集』はフィクションのはずだ。あの魔法陣の上で祈ったとき、異界に行きたいだなんて、僕は真剣に思っていたわけじゃない。僕だけじゃない、この中の誰が一体、真剣にそんなことを祈るものか。異界探検に熱心だったナルやアキだって、心の底では信じてなんかいなかっただろう。まして大友さんや桜ちゃんなんか、遊びのつもりでやってきたに違いない。
「と、とにかく下に行こうぜ」
ナルが明るい声を出した。
「アキの言う通り、でっかい氷があるかもしんないしな」
「お、おう。そうだな」
鳥肌を立てながらアキがうなずいた。
僕たちは階段の方に出ると、再び下へと向かった。
踊り場を通りすぎると、6階のガラス扉が目に入った。そのとき、先頭のナルが「あっ!」と声を上げた。
「どうした?」
「オフィスの中で何か動いた……気がする」
「誰もいないはずなんだろ!?」
「しーっ!」
僕たちは階段を、踊り場までそそくさと戻った。
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