第11話 9階へ
屋上の扉を開けて、ビルの中に戻る。明るい屋外から急にビルの中に入ったせいで、下に続く階段がやけに暗く見えた。
「ちょっと待って、懐中電灯出すから」
僕はドアの近くでナップザックを開け、懐中電灯を取り出した。
「ナイスだな、タツノ」
アキが親指を立てた。「落ちたらシャレならんからな」
「じゃ、僕が前に行くよ」
「いや、後ろから皆の足元を照らしてくれ」
ナルが言った。
普段からしっかりしているとは言い難いナルだが、こんなときには意外と的確な指示をくれて頼りになる。確かに階段には前方に障害物はないが、足元は段差だらけで危ない。前を照らしながら進むより、足元を照らした方が安全そうだ。
などと考えているうちに、ナルはいつの間にかヘッドライトを頭に装着して、「シュバッ!」と効果音を口にしながらポーズをとっている。大友さんと桜ちゃんにクスクス笑われているが、嬉しそうだ。
「先頭は俺に任せろ!」
「感心していた僕がバカみたいだよ」
「あれ、俺が姉ちゃんの彼氏からもらった古いやつなんだ」アキがニヤニヤした。「絶対ナルが喜ぶと思って昨日渡しといた」
「仲いいなお前ら」
かくして、ナル、アキ、大友さんと桜ちゃん、僕の順番で、階段を下りていくことになった。僕の数歩前で、大友さんのポニーテールと桜ちゃんのおさげが、並んでぴょこぴょこ揺れている。
「桜、大丈夫?」
「うん」
心なしか、桜ちゃんの声は不安そうだ。
「手、離した方がバランスいいかな」
「やだ!」
大友さんが何度も桜ちゃんの方を向くたび、暗がりの中に彼女の白い横顔がふっと浮かび上がる。
「僕も後ろから見てるから、何かあったらすぐわかるよ。大友さんも足元気を付けて」
「ごめんねタツノくん、ありがと」
ありがと、だって。すごいかわいくないか? これ。僕が大友さんの台詞を一所懸命脳みそに記録していると、前の方から「階段終わり!」という遠慮のないナルの声が聞こえた。
「なんもねーな」
「だなー」
ナルとアキが、口々に文句をたれた。
「まぁまぁ、まだ9階だよ。異界は下から来るんでしょ?」
大友さんがふたりをなだめる。
「つーかナル、こっち向くなよ! ライト眩しいから」
アキが顔をしかめた。元はといえば自分が渡したものなのに、それが裏目に出るとは……僕はこっそり笑った。
「わりーわりー」
ナルはヘッドライトを消したが、探検隊っぽさに未練があるのか、まだ装着している。
藤崎町第一ビルの9階は、なにかの事務所として使われていたようだった。ガラス戸の向こうには、職員室で先生が使っているような机がいくつか並んでいた。
僕はガラス戸を押してみた。鍵はかかっておらず、ドアの隙間から埃臭い空気が流れ込んできた。
そっと中に入ってみる。
もちろん、誰もいない。人もいない、明かりも点いていないオフィスは、まるで世界中から見捨てられた場所のようで、僕にはなんだか悲しそうに見えた。皆も僕の後に続いて、部屋の中に入ってくる。
「この机とか、持ち出さなくていいのかな」
僕は指で机の端を叩いた。ナルが「いいんじゃね?」と答えた。
「もう週明けから解体の準備に入るっていうし、いらないものは一緒に潰しちゃうんじゃねーかな」
「なんかもったいないね」
近いうちにビルと一緒に壊されちゃう運命なのかと思うと、無機物の机もなんだか気の毒だ。
そんなことにはまったくこだわらなさそうなアキが、盛大なあくびを一発して、「思ったより暑くないな」と呑気な声で言った。
「そう?」
「俺、行きはもっと暑かった気がするんだけどな」
「屋上の日差しが強かったから、中が涼しく感じるんじゃないかな」
僕がそう言うと、アキは「おーおー」と言いながらうなずいた。
「それな。さすがタツノ、私立行くだけあるぜ」
「まだ受かってないし、第一今だってそんな頭いいこと言ってないよ」
「タツノくん、中学から私立なの? 受験するの?」
驚いたような口調で大友さんが尋ねてきた。
「しりつ?」と不思議そうに尋ねた桜ちゃんに、大友さんが「頭よくないと行けない中学だよ!」と教えたので、僕は盛大にテレた。
「勉強難しいんじゃない? すごいねー」
「うん。まぁなんとか……」
僕はあいまいに答えた。正直に言うと、僕は特別頭がいいわけじゃないが、勉強は結構得意だ。竹内先生は「入試は大丈夫だろう」と言ってくれたし、もちろん油断は大敵だけど、僕も大丈夫じゃないかな、とは思っている。ただ大友さんにそう言うと、カッコつけてるみたいに思われそうで嫌だった。
「俺も同じとこを受験するぜ!」
ナルが威勢のいい声を上げた。僕はいつだったかナルに、塾で受けたという模試の結果を見せられたときのことを思い出した。
「お前はマジで勉強した方がいいよ……」
ついそんな言葉が口から漏れる。
「でも、私立って高いんじゃない? その、学費とか」
大友さん、意外に突っ込んでくるな……。たぶん大友さんも、僕の家が母子家庭だと知っているから、経済的な問題が気になるのだろう。
幸い僕は、「うちって貧乏だな」と思ったことはほぼない。母さんは資格を持って働いているし、父さんが亡くなったときにマンションのローンはなくなったらしい。どちらの祖父母もまだ健在で、困ったときには頼ることができる。ナルと一緒にいるとき、たまに「これが経済格差ってやつか」と思うことがあるくらいだ。
「タツノんちは母ちゃんがキャリアウーマンだし、それに特待生狙いだからな!」
ナルが、さっき「まぁなんとか」と答えた僕の謙遜を、大方なかったことにしてくれた。
「偉いねタツノくん! がんばれ!」
「ははは……ありがと……」
懐中電灯でライトアップされた大友さんの応援に、僕は照れるあまり微妙な笑顔で応えた。僕とナルが目指す中学校は、東京やなんかの有名私立中学校とは比べ物にならないかもしれないが、地元の公立中学校よりも授業が難しく、進学率がいいのは確かだ。母さんは「将来の夢なんかまだ決めなくていいから、とにかく勉強しときなさい。あんた勉強得意なんだから」と言って、僕に受験を勧めてきた。ちなみにナルは、父親がその私立中学校出身だから受験するのだそうだ。
「秋吉くんは?」
「俺は普通に公立行くよ」
「じゃあ、竜野くんと成沢くんとは別れちゃうんだ。寂しいね」
そんな優しいことを言ってくれるのは、この中では大友さんだけだ……もちろん、僕だって寂しくないわけじゃない。今同じ小学校に通っている生徒は、ほとんどが地元の公立中学校に行くのだ。私立中学校で、僕は新たに友達を作ることができるだろうかと考えると、どうしても不安になってしまう。ひとりぼっちにならないために、ぜひともナルには、僕と同じ私立に受かってもらわなければならない。
と思ったそばから、ナルが「まー、タツノには俺がいるから寂しくないって!」と言いながら僕と肩を組んだ。
「よく言うぜ。ナル」とアキがナルの肩をつついた。「受験受からなかったら俺と同じ公立だからな」
「あはは」
僕たちの話を聞いた大友さんが朗らかに笑いながら、ふとTシャツの袖からむき出しになっている二の腕を撫でた。
オフィスを出る前に、僕は9階の写真を数枚撮った。
「なんか写ったか!?」
アキが嬉しそうに尋ねてきたが、あいにくデジカメの小さな画面で見た限りは、おかしなものは写っていない。たまたま写り込んだ大友さんが、こっちにちょっと手を振っていて心が和むのと、自分から写り込もうとしたナルが盛大にボヤケているくらいだ。
「そうそう心霊写真なんか撮れないって」
僕が残念がるアキに言うと、
「そうだな。そもそも心霊じゃなくて、異界に用事があるんだもんな」
と、アキも納得したようだった。
僕たちはあれこれ話をしながら、階段をさらに下っていった。
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