第12話 8階へ

 8階への階段を半分ほど下ったとき、大友さんが突然声を上げた。

「ちょっと待って」

「どうした?」

「しっ」

 大友さんは唇に立てた人差し指を当て、僕たちの顔を見た。ナルですら空気を読んで口をつぐむ。

 僕たちが足を止め、話すのをやめると、ビルの中は死んだように静まり返った。

 しばらく僕たちは階段の途中で立ち止まり、薄暗がりの中で黙って顔を見合わせていた。僕の持っている懐中電灯が、皆の足元に輪郭の崩れた光の輪を描いている。

「……ごめん、気のせいかも」

 気の詰まる沈黙の後で、大友さんがそう言った。僕たちは示し合わせたように、ほーっと息を吐き出した。

「何だよ急にぃ~」

「びっくりしたぁ」

 思わず本音が出た、という感じで、ナルとアキが口々に言う。

「ごめん。何か聞こえたような気がして」

 大友さんは照れ臭そうに笑った。それを聞いたナルが、急に目を輝かせる。

「えっ、どんな?」

「よくわかんないけど、誰かの声がしたかなって……誰も聞いた人いない?」

 僕たちはいっせいに首を横に振った。

「桜は?」と大友さんが聞くと、桜ちゃんはちょっと目を閉じたが、少しして「ううん」と答えた。

「そっかぁ。桜、わりと耳がいいから、聞こえたかと思ったんだけど」

 大友さんは手すりに両手を置いて、下を見下ろした。

「下の方から聞こえた気がしたんだけどな」

 僕もつられて下を見る。と言っても、見えるのはすぐ横の階段だけだ。このビルの階段には、吹き抜けになっている部分がないのだ。

「どんな声? たとえば男とか女とか、若そうとか年寄りっぽいとか……」

「うーん。よくわからなかったんだけど、何ていうか……何かを呼んでるみたいな感じかな」

 僕はもう一度耳を澄ましてみた。怪しい音は何も聞こえなかった。

「このビル、誰もいないはずだけどなぁ」とナルが首を傾げた。

「だよね。うーん、気のせいかも。ごめんね」

 大友さんがそう言って両手を合わせると、ナルがそれにかぶせて「いや!」と言った。

「わかんないぞ! 異界人の声かも」

 ナルは目をキラキラさせ、僕たちと同じように下を覗き込んだ。

「下の方に、異界の関係者がいるのかもしれないぞ!」

「なんかの業界人みたいな言い方すんなよ。異界感薄れるじゃん」

 アキが言った。

「異界人か業界人かわかんないけど、走るなよナル。桜ちゃんも大友さんもいるんだから」

「おっ」

 ナルは踏み出した足をぐっと踏ん張った。こいつ、やっぱり駆け出すつもりだったみたいだ。アキが止めてくれてよかった。異界人はともかく、廃ビルの階段でダッシュして怪我でもしたら大変だ。

「あ、そうだ。桜ちゃん、疲れたら言ってね。大友さんも」

 僕は思い出してそう言った。遠慮されて倒れたりしたら、それも大変だ。何と言っても桜ちゃんはまだ小学1年生である。

「つーか桜ちゃん、暑くない? 長袖着てるけど」

 アキが聞くと、桜ちゃんは少し慌てた様子で、着ている薄手のパーカーの裾をぎゅっと握って「暑くないよ!」と答えた。

「だいじょぶだいじょぶ、この子寒がりでさー」

 と、大友さんが桜ちゃんの頭を撫でた。

「ま、辛かったら言えよ! 異界人が怖かったら、俺がおんぶしたる!」

 ナルが親指をぐっと立て、自分の背中をビシッと指さした。桜ちゃんはこぼれるようにクスッと笑った。こういう笑い方が、なんだか大友さんに似ている。姉妹だなぁと思って、一人っ子の僕は羨ましくなった。

「じゃ、下に行くか」

「よし」

 僕たちはふたたび歩き出し、8階に到着した。と言ってもドラマチックなことは何もない。ただ階段を下りただけだ。目が屋内のうす暗さに慣れてきたので、僕は皆に断って懐中電灯を消した。

 8階にも大きなガラス戸があり、その向こうはやっぱり空のオフィスだ。衝立も机もないが、隅の方に大きな機械らしきものがある。

「これ、何の機械かなぁ」

 見てもさっぱりわからないが、古いもののようだ。

「俺も全然わかんないけど、置いてったってことはきっともう使わないんだろうな。上の机と同じだよ」

 ナルが言った。

「でも、建物と一緒に潰しちゃっていいのかな? こういうのって高いだろうに」

「いいんじゃね? たぶん持ち出すのも金がかかるんだよ」

「成沢くんって、たまに大人みたいなこと言うよね」

 大友さんが感心したように言った。

「だろ? 精神年齢の高さが出ちゃうんだよな」

「年中さんくらいの精神年齢が……」

 アキがニヤニヤして、ナルにどつかれた。

「も~、緊迫感ないなぁ。異界に近づいてるっていうのに」

 そういう大友さんも笑っている。

「そういえば大友さん、あれからまた変な声とか、音とか聞こえた?」

 僕はふと思い出して尋ねてみた。大友さんは首を傾げた。

「うーん、しないと思うけど……でもさ、異界って下から上がってくるんでしょ?」

「ん? うん、確かそうだけど」

「もしさっきの声が異界人の声だとしたら、もっと下に行ったらわかるよね。きっと」

「だね……」

 大友さんは本気で言っているのだろうか。それともこの場のノリだろうか?

 僕はそのときふと、何かモヤモヤとした不定形のものが、1階の床を突き破って大声を上げるところを想像してしまった。そして人知れず冷や汗をかいた。

 先はまだまだ長い。

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