第10話 屋上

 長い階段の旅を経て、ようやく僕らは藤崎町第一ビルの屋上にたどり着いた。

 まだメインイベントは少しも始まっていないが、すでに何かを成し遂げた気分だ……帰りはエレベーターで帰りたい。動いてないけど。

「よーし! 着いたぞ!」

 ナルが鍵を取り出して、屋上に続くドアを開けた。

 屋上は塗装の剥げた柵で囲まれていた。貯水タンクの上に、青い空が広がっている。

 僕は屋上の柵の近くまで寄ってみた。高いところに来ると、ついこうやって下を見てしまうのはなぜだろう。

「100フィートの塔」は、そのてっぺんから見下ろしてみると、クラクラするほど高い。前の通りを走っていく車が豆粒のようだ。うっかりここから落ちたら死んでしまうだろう。逆に言ってしまえば、死ぬこと自体はかくも簡単なことなのだ。恐ろしい。

 桜ちゃんがうっかり柵の外にでも出たら大変だ……と振り向くと、彼女は大友さんと一緒に、水筒を開けてちゃんと水分補給していた。桜ちゃんより、ナルやアキの方がフラフラしていて危険かもしれない。

「おーい! タツノ、あぶねーぞ! 古いビルだから手すりなんかボロボロだぞ」

 ナルがまたでかい声を出す。危ないのは僕の方だった。皆の方に戻ると、僕もナップザックを開けてお茶を飲んだ。

「ついでに食わない? 俺、腹減っちゃった」

 ナルがリュックの中から、栄養補助用のクッキーだの、非常用のビスケットの缶だの、氷砂糖だのを取り出した。こいつ、登山でもするつもりだったのか……と、やり過ぎな重装備に呆れたものの、僕も小腹が空いていたことに気づいた。

「ありがたいけど、どうしたんだよ、これ。こんなに買ってきたの?」

 いくらナルん家が金持ちといっても、さすがに悪いな……と思っていたら、ナルは先読みしたように「あ、わざわざ買ってきたんじゃねーぞ」と言った。

「俺んちの会社の備蓄食料。の古くなったやつ。お茶と同じで、そろそろ賞味期限が切れるから持ってきちゃった。どうせ捨てるっていうからさ」

 見てみると、パッケージに書かれている賞味期限は今月中だった。確かに備蓄食料としては交換が必要だ。その代わり、今日食べてしまう分には問題ない。

「いいね。成沢くん、色々ありがとね」

 大友さんがにっこり笑って言った。賞味期限間近の食品でこの笑顔が見られるなら、ナルもでっかいリュックを背負って階段を上った甲斐があるだろう。

 僕たちは屋上にレジャーシートを敷き、甘いものを広げて食べた。空は青く、強いけれど気持ちのいい風が吹き渡っていた。

「なんか、ピクニックに来たみたい」

 大友さんが言った。

「ほんとだ」

 僕も心からそう言った。「なんかちょっとセンチメンタルな気分になるな。思い出作りって感じで」

「おいおいタキノ、女子の前だからって繊細アピールするなよ」

「なんで口頭でさんずいつけたんだよ!」

「あははは」

 アキと大友さんが笑った。桜ちゃんは漢字がピンと来ないらしく、キョトンとしている。

「じゃあ、片付けたらいよいよやるか!」

「あ、ちょっと待って」僕はカメラのことを思い出した。

「その前に写真撮っていいかな。後で従兄に見せたいのと、記念にさ」

 貯水タンクの土台の端にカメラを置き、アングルを決めると、僕はタイマーをセットして、ポーズを決めている皆のところに戻った。シャッターを切る音がした。

 確認画面にして、皆に見せる。

「おっ、よく撮れてる」

 ナルがそう言った。

 画面の中の僕たちは本当に楽しそうだった。僕もナルもアキも大友さんも、恥ずかしがっていた桜ちゃんも、屈託のない笑顔で写っていた。


 撮影を終えて、いよいよナルが魔法陣を取り出した。

 魔法陣は、A4サイズのクリアファイルにきちんと畳んで入れられていた。学校でもらうプリントみたいに見えて、なんだかおかしかった。

 ナルはリュックサックにしまったレジャーシートの代わりに、折りたたんだ魔法陣を広げ始めた。僕が写真に撮って送ったそのままの画像なので、端っこがちょっぴりボヤけている。とはいえ、概ねあの本にあった通りだ。

「これが、どのくらいの大きさだっけ?」

「A1だってよ」

「プリンターから出てきたと思えば結構デカいけどさ、俺たちが皆乗るにはギリギリだな」

 アキが皆の顔を見回した。

「4人でスクラム組んで、真ん中に桜ちゃん入れるか」

 ナルがそう言いながら、さりげなく大友さんの対角線上に移動した。こいつ、女子と肩を組むのを避けたな、と僕は悟った。僕たちに対しては、普段から好き勝手に振舞っているナルだけど、女子には照れてしまって、ちょっとだけ普段通りの彼ではいられなくなるということを、付き合いの長い僕は知っている。

 とはいえ、僕も女子と肩を組むのが全然平気だとは言えない……大友さんは平然としているけれど……僕はさりげなくズボンの太ももで手汗をぬぐった。

「タツノ、これに載ってからどうするんだっけ?」

 ナルに聞かれて、僕はポケットからプリントを取り出した。亮ちゃんの日本語訳が書かれたものだ。

「魔法陣の中に入り、異界に行きたいと強く念じる。って書いてあるよ」

「呪文とかなかったっけ?」

 そう言って、アキが僕の顔を見た。

「少なくとも、本には書いてないよ」

「やっぱないのかぁ~。あった方がかっこいいのになぁ」

 残念がるアキを見て、大友さんが苦笑する。

「じゃあ、初詣でお祈りする感じだね」

「え~? 異界に行くのに、そんなほのぼのムードでいいのかよぉ」

 呪文はともかく、僕たちは魔法陣に載ってスクラムを組んだ。本当にギリギリの大きさだ。僕の肩に、アキの長い腕と大友さんの細い腕が載る。桜ちゃんがチョコチョコと僕たちの真ん中に入り込む。すぐ隣で、大友さんが「ふふっ」と笑ったので、僕は少しドキドキした。

「じゃ、やるか!」

 ナルが号令をかけた。僕はとりあえず目を閉じ、「異界に行けますように」と念じた。異界がどんなところかさっぱりわからないが、せっかく100フィートの塔に登ったんだし、興味がないと言ったらウソだ。亮ちゃんに土産話ができるくらいの異界っぽさが味わえますように……。

「……そろそろいいかな?」

 ナルの声がした。僕は目を開けた。スクラムを解き、辺りを見回す。

 何も変わっていなかった。

 さっきと同じように空は青く、風は爽やかだ。わかってはいたけど、拍子抜けだった。

「異界ってのは、下の方から来るんだろ?」

 早々に魔法陣を片付けながらナルが言う。「だったら俺らも、どんどん下りてくしかないっしょ!」

「またあの階段かぁ~」

 アキが溜息をついた。大友さんが、「下りだからちょっとは楽だよ」と慰める。

「桜は大丈夫?」

 大友さんが尋ねると、桜ちゃんは大きくうなずいた。

「うん。休んだから」

 桜ちゃんがそう言うのだから、僕らが弱音を吐くわけにはいかない。

「よし、じゃあ行くか! いざ異界へ!」

 ナルが少し軽くなったリュックを背負って、僕たちの先頭に立った。


 そして僕たちは、階段を下り始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る