第9話 アレックス・アーヴィング事件
9階建てのビルを1階から屋上まで、階段だけを使って上るということは、想像していた以上に大変なことだった。
そもそも同じことをやったことがない。僕たちが通う学校の校舎は3階建てだから、それ以上の階に上ることはしたくてもできない。僕が母さんと住んでいるマンションは10階まであるけど、自分の部屋がある6階までしか行かない。それに使うのはほとんどエレベーターで、階段で上ることはあんまりない。
藤崎町第一ビルの中は、1階以外はどの階も大体同じだった。階段と向かい合わせにエレベーターがあって、エレベーターの前に若干のスペースがある。階段を上ると、向かって左に両開きのガラス戸があり、その向こうがひとつの広い部屋になっている。
僕たちは4階のエレベーター前で最初の休憩をとった。桜ちゃんもいるのに無理はできない。内心、ナルが突っ走らないかと心配していたのだが、彼は思いの外気遣いを見せていた。まず背中からリュックサックをおろすと、中からレジャーシートを取り出す。僕たちはそこに、丸くなって座った。
「暑さ大丈夫か? お茶飲む?」
ナルはそう言いながら、リュックサックから500ミリリットルのペットボトルを何本も取り出した。
「これ、もらっちゃっていいの? 助かるけど……」
大友さんが遠慮がちに言う。
「うん! うちの事務所に箱のまま置いてあってさ。そろそろ賞味期限切れるやつだから、むしろ飲んでほしい」
とはいえ、僕らは全員自前の飲み物を持っていたから、お茶はあまり減らなかった。飲み物の残量を気にしなくてよさそうなのは助かるが、その代わりナルの荷物が重そうだ。
「ナル、お前何本持ってきたんだ?」
僕がリュックの中を覗くと、同じお茶が何本も入っている。すでにシートの上に出したものと合わせると、なんと10本もあった。
「500×10で5キロ!? お前、よくこんなもの背負ってんな……ナル、僕もちょっと持つよ」
「俺も持つわ」
「悪いなー。バッグの上の方に入れると安定するぜ」
僕とアキは、ナルから2本ずつペットボトルを受け取って、それぞれ自分のカバンに入れた。大友さんも「持つよ」と言ったが、ナルは「自分らの分だけ持っててよ」と言った。
「大友さんは桜ちゃん係だから、そっちヨロシク」
「ありがとう」
大友さんはにっこり微笑んだ。ナルは柄にもなく照れた様子で顔を伏せ、頭を掻いた。
部屋の中にいくつも窓があるので、エレベーター前は自然光で結構明るい。多少埃っぽいことを除けば、休憩には悪くないスペースだった。
それから僕らはまた、階段を上った。
「俺んちの、一番上の、姉ちゃんの、彼氏がさ」
アキが荒い息を吐きながら話しかけてきた。
「登山が、趣味なんだって。でもさ、絶対マジで、しんどいよな。こんな、階段上りなんか、よりさ」
「山登りの方が、絶対辛いよな」
「だろ? 俺も、そう、思う」
とはいえ、ビルの階段は山と違って景色が変わるわけでも、空気がおいしいわけでもなんでもない。空調のない無人のビルは、夏の初めの熱気が満ちて蒸し暑かった。こんなところはビルの方が辛い。
7階についた。熱中症になったら敵わないので、僕たちはまたエレベーターの前で休憩することにした。
「桜、大丈夫?」
大友さんが尋ねると、桜ちゃんは「うん」とうなずいた。丸い頬っぺたが赤く染まっていたが、元気そうだ。
「きっちり休んでから行こうぜ。何だかんだでまだ早い時間だし」
アキが腕時計を見ながら言う。そう言われて僕も自分の腕時計を見た。デジタルの画面が13:38を示している。
「あっついよなぁ」
ナルがため息混じりに言った。「ちょっと、怖い話していい?」
「ほどほどにしろよ、お前」
とはいえ、僕は怖い話は大好きだ。ただ、大友さんや桜ちゃんが怖がったらかわいそうだと思った。アキは自己責任でいいけど。
「いや、今日の異界ツアーに関係あるんだよ。アレックス・アーヴィング事件ってのがあるんだけど」
ナルは少し声のトーンを落とした。そういえば、亮ちゃんがアメリカで何か事件があったと言っていた気がする。
「なにそれ」
「『アドゥネイア呪文集』を使って異界に行こうとした人たちが、ほんとに行方不明になったって話だよ」
ナルはリュックサックをガサガサやって、ぐちゃぐちゃになったプリントを取り出した。何かのウェブサイトを印刷したもののようだ。
「どれどれ。1986年に、アメリカ・テキサス州の田舎町に住んでいた13歳の少年3人が、『異界に行く』と言い残し、行方不明になった。この行方不明事件は、彼らのうちのひとりの名前をとって、『アレックス・アーヴィング事件』と呼ばれた……」
僕は勝手に紙を取り上げて読み上げた。自分がつっかえながら読むよりよっぽど早いとわかっているので、ナルも僕に任せている。
「手がかりもないまま、未だに未解決となっているこの事件には、ある書物が関わっていると言われている。1951年に出版された、アーネスト・シモンズの『アドゥネイア探訪記』だ。イギリスの幻想文学作家シモンズは、魔法が存在する架空の国・アドゥネイアにリアリティを持たせるため、自ら『アドゥネイア呪文集』という小冊子を作成した。少年たちはこの本に登場する魔法陣を、『異界に行く』ために使用したと言われている。シモンズが生前『アドゥネイアは実在した』と匂わせる発言を何度かしていたことも相まって、この事件はオカルトファンの間で話題となった。発生から30年以上が過ぎた現在も、この事件は未解決とされているため、魔法陣が本物だったのではないか、という疑いを未だに捨てきれないオカルトファンも少なくないようだ……だってさ」
僕が読み終えてプリントから顔を上げると、思いの外真剣な顔をした皆がこちらを見ていた。
「じゃあ、本当に異界に行っちゃった人もいるってことかな?」
やけに弾んだ声で大友さんが言う。やっぱり彼女は、隠れオカルトファンだったのだろうか。
「そんなぁ。たまたまじゃないかな」
僕は冗談だと思って軽く返したが、大友さんは意外なほど怖い目付きをして、じろりと僕をにらんだ。
「もー、竜野くんてば。ロマンがないよ、ロマン!」
「は、はい」
叱られてしまった。確かに探検中だというのに、水を差すようなことを言ったのはよくなかったな、と僕は反省した。
でも、にらまれた時は驚いてしまった。まさか大友さん、本当に魔法の呪文集のことを信じているのか? ナルやアキじゃないんだから、まさかとは思うが。
「作者のシモンズさんは、この事件のことはどう言ってるのかな?」
大友さんが誰にともなく尋ねると、ナルが答えた。
「この時はもう、シモンズって人は亡くなってたんだよ」
「そっか。じゃあ、真相は闇の中ってことね」
「そうそう、呪文集が本物かどうかも闇の中……なんてな。だがしかし! 俺たちはそれをこれから試すんだ!」
急に探検スイッチの入ったナルが、ガバッと立ち上がった。「さぁゆこう! 仲間たちよ!」
「ちょっと待て! 休憩とらないと熱中症になるって言ってるだろ」
僕はナルのズボンをひっぱって、もう一度その場に座らせた。
こうして7階での休憩を終えると、僕たちはいよいよ屋上へと歩を進めた。
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