遊びの時間であった。

 やや日の傾きかけた空、揺れる帰りの船の上、誰もが寡黙であった。


 鴨兵衛、島まで乗ってきた時と同様に甲板の端に座り、体に塗り込んだ薬の効能に怯えていた。


 渡された異国の塗り薬、額やら掌やら、切れて擦れて痛むので止血できればとまわしから着物に着替える際、軽い気持ちで塗ってみた。


 これが、やたらと効いた。


 止血はもちろん、塗って拭えばもう膜が張られ、痛みも引いて問題なく動く即効性、鴨兵衛知る限りこれほど効能ある薬など、夢物語の中に限られていた。


 その様な薬が存在すること、そして今しがた神へと無礼を働いてたこと、合わせて考えれば、この薬もまた危険なものではないかというの想像、そしてそれを使ってしまったことはひょっとするととんでもない罪を重ねたのではという不安、鴨兵衛は言葉にできないで恐怖していた。


 その横ではおネギ、横になり、瞼を閉じて寝息を立てていた。


 あの神に捕らわれてから解放された今までずっと眠り続けていた。


 一応、体に怪我は見られず、呼吸に乱れはなく、顔色は良くはないが少なくとも船酔いの時ほど悪くはなく、それを無理に起こすのは逆に可哀そうとの判断、寝かせたままであった。


 オセロ、そんな二人を遠目にぼんやり見つめていた。


 船尾側、中へ入れる扉の横、一人で着替えたのか元の服装で、相も変わらず退屈そうに大あくび、その間にも右手は変わらず暇をつぶすため、小舟の櫂を弄ぶのも同じであった。


 その横にタクヤン、びしょ濡れのままへたり込み、真っ白に燃え尽きていた。


 服は着替えずにまわし姿のまま、魂が抜け落ちたかのように口を半開き、その眼は開いているがしかしこの世の何も見えてはいなかった。


 ……相撲に負けてからずっとこの調子であった。


 この船に戻るのに歩くのにもオセロの手助けが必要なほどで、意識の戻らないおネギよりも見るからに重症であった。


 無理もない、と鴨兵衛は思う。


 具体的な内容は知らないまでも、タクヤンがわざわざ海を渡ってきたのは、先ほどの神との交渉のためだったのであろうとは想像がつく。


 しかし結果は知っての通り、怒らせはしなかったがそれ以上の何も得られず、帰り際に次の交渉は表を通ってと釘を刺され、下手をすれば管理する神社なり藩なりに苦情が行くかもしれない。少なくとも秘密裏に行う道は閉ざされたことだろう。


 結果だけ見れば、交渉は失敗であった。


 それをまた長い航海をして持ち帰る。


 しかもその失敗を決定づけたのは、予想できなかったことだったとはいえ、タクヤン自身、その身で相撲に挑み、敗北した結果であった。


 責任問題、タクヤンほどの口の上手さであれば何とか言い逃れることもできるかもしれないがしかし、この規模の大遠征に事の重要さを合わせて考えれば、その失は、最悪腹を切って詫びねばならぬほどに大きいことだろう。


 それが故郷で待っている。


 その心中察する鴨兵衛であったがしかし、それでも自分の薬のことで頭がいっぱいなままであった。


「ア!」


 そこに響く一音、続いて光を取り戻したタクヤンの表情から、何やら思いついたのだろうとうかがい知れた。


 その目線、まっすぐ鴨兵衛へ向けられた。


 ……これを受けた鴨兵衛は、全てを察した。


 このままいけば確かに、タクヤンは失態を責められるだろう。


 しかしそこに弁解の余地、当初は予定通りに運んでいたのに邪魔が入ったと言えば、まだ命乞いはできた。


 最初の襲撃、そこに都合よく表れた協力者、信用して雇い入れるもそれまでもが罠、最後の最後、彼らが精霊と呼ぶ神との交渉に、割って入って邪魔をした。


 その後ろに藩か、統一幕府が、あるいは他の何ものかが潜んでいたのだとかなんとかかんとか、思わぬ奇襲に仕方なく撤退したと、タクヤンの舌なれば言いくるめはたやすいことであろう。


 そういうの、こちらの世でも、武士の世界にも広くあること、知ってる鴨兵衛は特に非難するつもりはなかった。


 ただ問題、責任を擦り付けるということは、鴨兵衛が責任を問われるということを、ならば身柄を抑えて尋問、というのもあり得る話ではあった。


 ならば、これまで、頃合いを見て逃げ出す。謝礼の類はすべてあきらめ身を隠すのが互いの幸せだと、不器用なくせにこういうことだけは察しがよかった。


 と、そのタクヤンに向けてオセロが何やら話しかける。


 これにタクヤン、何やら返事を返すと途端、退屈にたるんでいたオセロの表情が花開くように明るくなった。


 そして歩き出す。


 喜びが足取りに出るかのような軽やかな歩みで向かった先は、その手の櫂を取り出した小舟、手を突っ込むと二本目を引っ張り出した。


 それら束ね、片手右手で持ち運び、緊張と予感、恐怖を忘れた鴨兵衛の前にて、オセロは立ち止まる。


「ヨオ」


 笑顔、そこからの一声、同時にオセロ、その手の二本のうち一本の櫂を、鴨兵衛の前にカラリと投げ落とした。


「アソボ」


 片言、けれども十分意味の通じるお誘いをオセロは発した。


 これに、抗える鴨兵衛ではなかった。


 遊びの時間であった。

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