後悔に襲われていた。

 …………鴨兵衛は静かに、後悔に襲われていた。


 二つ返事、深く考えることも、細かく尋ねることもなくタクヤンとオセロ、二人の護衛を買って出たことは、今思えば浅はかな行いであった。


 なんでそんなことをしたのか、言い訳なら、いくらでもできた。


 人助け、異国への好奇心、半日との時間と距離、襲われるという可能性、報酬、山賊という言葉もあった。断る理由など見当たらず、これまでの旅と同様、路銀稼ぎのようなものと考えていた。


 その流れで勝手に、陸路をゆくものだと思い込んでいた。


 だが実際は、海路、船での移動であった。


 ザッパーン。


 やや曇り空となった海は風が強く波も高く、いくら大陸よりはるばるわたってこれた巨大な船とは言え、よく揺れた。


 そしておネギは、この揺れに弱かった。


 グエー。


 漏れ出る声は悲痛であった。


 異国の船、広々とした甲板の上、進行方向に対して右側、海を背に胡坐で座る鴨兵衛、その交差した脛を枕にしておネギは伸びて、動けない。


 こうなるとわかっていたならば断わっていたし、わかった段階で断わるべきだったと鴨兵衛は思う。けれども一度は了承し、そして出発、船まで来てしまっては、口下手な身には断りにくい。


 それに、何よりもオセロという異国の強者、離れることに後ろめたさがあった。


 それをくみ取れるのがおネギであった。


 こうなること、苦しむこと、酔うこと、わかっていたこと、けれども鴨兵衛の思いをくみ取って進んで船に乗り、そこにタクヤンの言いくるめが入ってしまえば、だめだと思うことはできても、抗うことができないのが鴨兵衛であった。


 ……幼い娘にそのようなこと、させてしまう自分を恥じる鴨兵衛、であったがしかし、同時にこの状況を喜ぶ、卑しい自分がいることも自覚していた。


 その様な心の葛藤、気にするそぶりも見せないのがオセロであった。


 正面、反対側、進行方向に対して左側にて、同じく海を背にしてこちら向きに座り、両足を伸ばして投げ出し大あくび、まさに退屈しきった子供のようであった。


 しかしその右手は、世話しなく、そして異常に、動いていた。


 ……それと同じ動き、以前に鴨兵衛が見たのは街角や酒場、暇してるものが暇をつぶすため、キセルを弄ぶ動きであった。


 ただし、オセロが用いるのはキセルではなくかい、小舟を漕ぐための、先端にヒレのついた長い棒であった。出所はこの巨大な船の左右に吊るされた小舟の中、備え付けてあった内の一本を勝手に取り出していた。


 その長さ、槍に等しく、重さも同程度と思われるそれを片手でクルクルリ、指と指との間を上り下りしたかと思えば手の甲をぐるりめぐって一周、戻ったら今度は逆回転、かと思えばはねて垂直に、伸ばした中指の上、垂直に立てて、それを倒さずに曲げ伸ばし、それもクルリクルリ、内の方と爪の方、両方でそれぞれ五回はやって見せた。


 常人ならざる器用さに体幹、何よりもその指の力、見せつけられていた。


 オセロ自身からすれば、これらはただの暇つぶし、手持ち無沙汰をつぶす遊びでしかないのであろう。だがしかし、その動作一つ一つがこの上ない鍛錬、それを暇さえあればやってのけるその姿は、この異国にあふれた船の中、帆の一枚、縄の一本に至る他全てを相手にしても、見るに値した。


 同時に鴨兵衛、焦りも感じる。


 目の前ですごいこと、やって見せられ、けれども見てるだけ、そんな鴨兵衛もアレと同じことはできないまでも、それに負けない鍛錬を繰り返してきたとは胸を張って言えた。


 しかし今は見せられない。そんなことよりも今は、遅ればせながら、おネギの平安の方が優先であった。


 故に動けぬ、動かぬ鴨兵衛、それを前に退屈に鍛錬で遊ぶオセロ、横で息絶え絶えなおネギ、三者の間に流れるは風の音と波の音、そしてタクヤンの独り言であった。


「条約。じょう、やく。じょーうやーーく」


 革で閉じられた本を読みながら単語一つ一つを声に出して読んでいた。


 こちらの言葉は彼らにとっての異国の言葉、聴いて何を言っているかわからぬのはお互い様、それをあれだけ自然に使えるのは、相応の勉学が必要なのはあたりまえのことであった。


 軽く、調子の良いことばかり言っているように見えるタクヤンであったがしかし、隙あらば本を読み、人知れずに苦労しているのだと鴨兵衛は思った。


「下剋上、げーこーくーじょう。げこくじょう」


 ……しかし、物騒な言葉、漏れてる辺りに脇が甘かった。


 それを聞き流そうと思えば必然、鴨兵衛は寡黙にならざるを得なかった。


 と、そこへ、異国の言葉が響き渡った。


 意味の通じぬ鴨兵衛の前でオセロが遊んでいた櫂を小舟の中へと投げ戻し、同じくタクヤンも本を閉じて仕舞う。


 これでようやく、船が目的地に着いたのだとわかった。


 おネギを揺らさぬよう気を配りながら鴨兵衛、首を伸ばして船の先を見れば確かに、うっそうと木々が生い茂った決して小さくはない島がチラリと見れた。


 あそこで誰と会うつもりなのか、好奇心くすぐる鴨兵衛に影が差す。


「今回は挨拶だけなので、すぐに終わらせるつもりです」


 タクヤン、話しかけながら船の淵より身を乗り出し島を見る。


「まぁ正直、今回はアポなしでの営業なんで、先方も準備できてないはず。これからクライアントになる相手に少々マナー違反ですが、それを超えるプレゼントとプレゼンとで何とかなるでしょ」


 タクヤン、鴨兵衛には何言ってるかわからないことを言いながら一人で笑う。それが異国での冗談の類だった、との予想はできた鴨兵衛であったが、だからと言って笑っていいものかはわからなかった。


 と、船が一際大きく揺れると、揺れは収まった。


 島に乗り上げたか、思う鴨兵衛の足元よりおネギ、シュルリと立ち上がるとヨタヨタと船の端に、普段の様子からは考えもつかないどんくさい動きでよいしょとよじ登るや、そのまま音もなく外の方へと落ちていった。


 このゆっくりながらあまりにも自然な動きに反応遅れた鴨兵衛、慌てて追って身を乗り出し、手を伸ばすもおネギの身はもはや届かぬ距離まで落ちていた。


 自力で上るのは無理の高さ、なれどその下は海、ならばまだ大丈夫と己を無理に安堵させる鴨兵衛、けれど水音はしなかった。


 代わりにおネギ、途中で抱き留められていた。


 …………人、では決してなかった。


 姿形だけならば人に近いがしかし、波に洗われる二本の足は木の根が束なったもの、落ちたおネギを抱き留めたのは蔦が束なったもの、その間をつなぐ体は土くれが固まったもので、見上げてくるその顔は、石を削ったものであった。


 その姿、その異形、これまで見たことない鴨兵衛であったがしかし、それが何なのかは知っていた。


 神、人が触れてはならない存在、人と交わってはならない存在、それは八百万やおよろずの神、その一柱であった。


 そしてそのようなものが、このようにはっきりと実存している場所は、聖域に他ならなかった。


 そこに、船で、乗り付ける。


 ………………鴨兵衛は、これまでにない激しい後悔に襲われていた。

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