ここまでは順調であった。
決して下心があったわけでも、何かを期待してたわけでもないが、と鴨兵衛は何度も心の中で繰り返す。
早桃、現れた時もいきなりであったがしかし、立ち去る時も同じくいきなり、二人を宿屋へ案内すると早々にその姿を晦ませた。
残されて二人、なけなしの銭で貝の味噌鍋をつついて夕食とし、その日は終わった。
次の日、早桃が迎えに来たのは昼、案内した先は小高い山の上の寺、大きな仏像の前、広々とした板間にて大会は開かれた。
「今回の料理は『
早桃が胸を揺らしながら胸を張って言う。
……素麺、小麦粉を塩と水と混ぜて練り、伸ばして麺にし、綿油を塗り乾燥させたもので、虫こそわきやすいが保存のきく食材であった。これを茹でて夏は冷や水で湯がき、魚の出汁に醤油を加えた汁に浸して啜るものであった。
「これもお勤め品、新たな麺をしまう為の放出。けどそれ以上に縁起がいいって大人気ってわけなんだよ」
笑う早桃が案内した第一の大会、結果から言えば、鴨兵衛の圧勝であった。
じゅぼ。じゅぼ。じゅぼ。じゅぼ。じゅぼ。じゅぼ。じゅぼ。じゅぼ。じゅぼ。
食欲失せる啜る音ながら他を寄せ付けぬ圧倒的な食欲、元より蕎麦を好む鴨兵衛にとっては他の追随を許さぬ独壇場、その箸が止まったのも一度だけ、明鏡止水の境地を体感した時だけであった。
水面が止まり鏡となるが如く、その心を鎮めて境地に至る。
言葉ではわかってるもののイマイチ分からぬ鴨兵衛であったが、それがこうしてそ素麺を啜るうち、己が既に行ってると気がついた。
即ち箸、持てばなんでも壊す鴨兵衛であっても食事の際、その手の箸を折ることは稀であった。
それを深くは考えず当たり前として受け入れていたのだが、つまるところその当たり前こそが明鏡止水であるのだと気がついた。
箸が如く、あるいは歩くが如く、息する如くごく当たり前に手を、体を使うこと、さすれば一々考えて行動するという無駄が省かれることとなる。
開眼、されど見えただけ、それもこの先の険しさを、であった。
箸ならば物心ついた頃より毎日食事毎、それでようやく至る境地、ならば剣においても同じかそれ以上の鍛錬が必要となるは必定、キノ滅入る話であった。
それでも見えただけマシ、と思う鴨兵衛、箸を進めるも、次がなかった。
ここでようやく勘違い気がつく鴨兵衛、この大会が『大食い』ではなく『早食い』だと、つまりはどれだけの量を食せるかではなく、決められた量をどれだけ早く食べきるか競うものだったのであった。
なので食べ終われば勝ち、いくらまだ食べられようとも終わりは終わりであった。
呆然と勝利し、けれども食い足りない鴨兵衛、おネギも喜んでる様子にこれで良いのだと己を納得させも満腹とはとても言えなかった。
「やるじゃん!」
そこへポン、と肩を叩かれた鴨兵衛、見れば早桃、その谷間、そして背後で三角となるおネギの表情、あれこれ迷う内に明鏡止水などすっかり忘れ去ってしまった。
その次の日、早桃は早朝にやって来た。
「今日は変わり種、知ってる? 『醤油』の早飲みなんだけど?」
……醤油、蒸した大豆に炒った麦、それに塩水と
「その醤油の中でも最新の味『うすくち』を売り込むためってわけで、その味を知ってもらうための大会で、勝ったら賞金とは別に鴨兵衛さんの似顔絵が看板になるってわけで」
笑顔の早桃に、鴨兵衛は苦々しく首を横にと振った。
「醤油は、知っている。だから言える。あれは海水と同じ物、料理に使うにも一滴二滴たらすもので飲むものではない。飲むとしたら毒を飲んだ時、流し込んで胃を驚かせて吐き戻すためであって」
「……つまり、嫌ってわけなの?」
早桃の問いに、鴨兵衛コクンと頷いた。
「そっか、わかった。嫌なら断ってもいいって約束だもんね」
早桃、あっさりと引き下がる。
「じゃあ今日は無しで、また明日ね」
別に下心あるわけではないのだが、もう少し粘るものかと思っていた鴨兵衛、勝手に肩透かしを食らっていた。
その後、やや不機嫌なおネギがこっそり抜け出し、一人で大会を見に行ったところによれば、大会に参加したのは五人、内四人が一気に飲み干しぶっ倒れて運び出され、残る一人が一舐めしただけで勝利との結果、当然納得できかねるものと、大会は血の流れる大荒れでとのことであった。
三日目は夜、暗い中でも遮光版外さない早桃が案内したのは高そうな料亭の奥座敷であった。
「今回はお待ちかねの『酒の呑み比べ』だよ~」
満面の笑みで早桃、説明する。
「今回はちょっと複雑で、ちゃんと聞いてね。先ず酒の飲み方、えっと参加者一人につき一人、芸者さんが就いてね、太鼓持ちさんの太鼓の音に合わせてそれぞれの盃に酒を注いてくんだって。注ぎ終わったら今度は三味線、これが一曲引き終わる前に飲み干したら次へ。そうやってドンドンと呑んでいって、最後まで酔いつぶれなかった人の勝ちってわけだって」
「ふむ」
「何? 鴨さんお酒苦手?」
「いやそうではないが」
いきなり「鴨さん」と呼ばれて狼狽える鴨兵衛に、早桃は気にせず続ける。
「それでね。特別なのがお水、ほらお酒屋さんのお酒って玉割りっていってお水で薄めるでしょ? それを自分でやるってわけ。肴と一緒に水桶がそれぞれ渡されるからそれで好きなように割って呑む。水が多いほど呑みやすいけどその分量が増えるし、かといってそのままだと強すぎる。この駆け引きを見たいってわけ。それと聞いた話だと火が点くほど強いんだって~」
「そうか」
「あぁそれと、ごめん。悪いんだけど今晩外せないわけあって、今回ここまでなんだけど、大丈夫?」
「それは」
「大丈夫です。ご心配なく」
鴨兵衛の代わりにおネギが即答する。
「そっか。じゃあ頑張って! じゃあね!」
手を振り去っていく早桃、その姿が見えなくなる前におネギ、鴨兵衛の手を引き大会開かれる料亭へと引き込んだ。
中では、話しがちゃんと通っているようで、滞りなく奥座敷まで通された。
大会参加者は合わせて六人、その世話をするものを除く、見学人はおネギを入れても四人であった。
内三人はご隠居、その口ぶりから各々自慢の子飼いの酒飲みを連れて、誰が一番かを争うという道楽のようであった。
即ち鴨兵衛、噛ませ犬、そのような扱いは慣れているものの、愉快になれるものではなかった。
程なくして大会始まり、太鼓の音に三味線の曲、合わせて酒が呑み干されていった。
……実のところ鴨兵衛、酒が好きではなかった。
弱いのではなく好きではない。
一般的に毒でも薬でも、体が大きければ必要とされる量も多くなるもの、酒も同じかは定かではないが、強い弱いだけで言えば鴨兵衛はこの上なく強かった。
どれぐらいかと問われれば、これまでの人生において、鴨兵衛は『酔う』という経験をしたことが無かった。
それは二日酔いであったり、頭痛や吐き気や、顔が赤らんだり手が震えたり、前後不覚になると言ったこともなければ、気分が高揚したりぐっすり眠れたり、体が熱くなったり良い気持ちになることも一度もなかった。
精々汗をかく程度、鴨兵衛にとって酒とは、ただ変な味のする水であった。
今宵出された酒もまた同じ、かなり甘く独自の香りがするもののそれだけで、出されれば呑めなくはないがしかし、同じ値段であれば蕎麦か飯か、他のものを腹いっぱい詰め込みたいのが正直な思いであった。
それでも勝負は勝負、真剣に取り組みば鴨兵衛、一杯二杯と呑み干してゆく。
五杯の時に一人が倒れ、十を超えたあたりでまた一人、それから数も忘れたころにまた一人、また一人と抜けていった。
最後の一騎打ち、互いに顔も合わせず飲み進めてるうちに、先にご隠居たちが酔いつぶれた。
酒は立ち登る香りでも酔えるというが、強すぎる酒はそれも強く、酒の場を生業にしているであろう芸者も太鼓持ちもが次々に酔って潰れて、鴨兵衛が勝ち残ったころにはしゃんとしてるのは三味線引き一人を残すだけであった。
これも決着、あっけないものだが、賞金は悪くなかったはず、鴨兵衛が思いながら忘れていた肴の漬物をつまんでいると、ふとその正面におネギが立った。
その顔は真っ赤であった。
呑まされたのか勝手に呑んだのか、あるいは香りに負けたのか、何にしろ酔っているのは明白、シャクリしながら見つめてくるおネギの焦点は合っていなかった。
「大丈夫か?」
問う鴨兵衛を一瞥するやおネギ、クルリ背を向け盆を飛び越えどさりと胡坐の上に飛び座った。
ガチャンと盆を蹴ったのは投げ出した足、その股の間に手を突っ込むようにしておネギは佃煮乗ってた皿を盃のように取ると乗ってた料理を零して空にし、背後の鴨兵衛目掛けて元気よく突き上げた。
座った目が『注げ』と言っている、感じとった鴨兵衛は戸惑いながらも皿を受け取り、そして咄嗟に横に置かれてあった、こちらも手つかずだった水桶より水を汲んで渡すと、おネギはグイと呑み干した。
これを三度繰り返し、四度目渡すもおネギ受け取らず、代わりに鴨兵衛の胸に凭れかかって寝息を立てていた。
いつの間にか三味線の曲は子守唄のように穏やかとなっていた。
…………こうして鴨兵衛、ここまでは順調であった。
絶好調、三大会負けなし、賞金もたんまりで、腹も膨れて良いこと尽くめ、これが仕事であったなら天職であろう、鴨兵衛は思った。
同時に、このような絶好調、長くは続かぬものだとも知ってはいた。
何よりも、目立ちすぎる。これではいけない。
思うば鴨兵衛であったが、けれども、まだ身を引くとまでは考えてもいなかった。
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