乳であった。

 ……決着はあっけなくついた。


 如何にこれが大食い大会とはいえ、食べ物を粗末にすることはご法度、きちんと食べることはもちろん、吐き戻すことを許せば職ではなくなるとの考えはこの町にとっての不文律であった。


 故に、又八は敗北した。


 鼻の穴の方に米粒が迷い込んだのか、ほんの少し、せき込んで、口を押えた手を放せばそこに鰯の肉片、それを持って決着となった。


 あっけない、あまりにもあっけなさすぎる決着に、真っ先に異を唱えたのは清輔であった。


「このような、事故のような勝利は勝利ではありません。どうか続きを」


 顔を真っ赤にして、腹もパンパンで見るからに限界近いなりをしながらそう言い放つ清輔の前に現れたのは父である清吉であった。


「お前は勝って祝言を上げたいはず、なのに勝ちを逃すというのか?」


 これに清輔は首を横に振る。


「私は勝ちたい。勝って認めてもらいたい。そのためにはこのような天運に身を任せるような賭博ではだめなのです。どうか、続きを」


 そう言い切る清輔に、又八と清吉はそろって笑い声をあげた。


「根性ない跡取りと思ってたが、その男気、覚悟、確かに見せてもらった。これなら妹を任せてやれる」


「ここまでしっかりしてるお前が惚れたお嬢さんだ。お前を操って悪いようにしようなんて、そんなことはないだろうさ」


「それでは」


 頷く二人、同時に囲ってた周囲が割れて、一人残されたのはお又、その前に出ようとして、躓く清輔を抱きとめて、そのまま二人は喜びに抱き合った。


 巻き上がる拍手万来、大食い大会は決着をもってしてすぐさま祝言の前祝へと様変わりした。


 みんながよかったよかったと笑顔の中、変わらず不機嫌なのは変わらず左端に座している鴨兵衛だけであった。


 お祝いだとふるまれた酢飯の内、お櫃一つ分を独り占めし、その上に佃煮の残り汁やら鰯の切り身やらを下品に投げ入れ、それをまるで茶碗が如く軽々片手で持ち上げ、バクバクと喰らい続けるその近くへ、近寄れるのはただ一人、連れのおネギだけであった。


 静かに水の入った湯呑をその横に置くと、並んで座り、ぼんやりと目の前に広がる海を見つめていた。


 ……この港町にくるまで、おネギは海を見たことが無かった。


 どこまでも続く大海原、実際はこの先には異国、この島国よりもはるかに巨大な大陸なる土地が広がっているというが、そんなことすらどうでもよくなる青の水平線に、おネギの目線は釘付けであった。


 その横顔見つめながら、不本意なけっちゃにに屁を曲げていた鴨兵衛であったがしかし、来た甲斐はあったと少しだけ機嫌が直った。


 と、そのおネギの向こうにストンと一人、腰を下ろした。


 乳であった。


 乳と乳であった。


 乳と乳とが並んで谷を作っていた。


 豊満、この上ない女体を、明らかに小さすぎる、おネギの着物より小さそうな赤い着物に詰め込んで、詰め込め切れずに色々はみだしていた。


「ども~」


 その声も女人、見れば人懐っこそうな笑顔、長い黒髪を雑に丸めてかんざしで止め、着物もだらしなく着崩して、けれどその顔の両目の部分だけは細い切れ込みの入った木の板で隠していた。


 遮光版、太陽の光や水面の反射から目を守るため、あえて視野を狭める道具、主に海で素潜りする海女が身に着けるものだと思い出した鴨兵衛は、つまりこの女が普通ではないと察知した。


 それでも、いやだからこそ魅力的であるその体に、鼻の下を伸ばさずに済んだのは視野の下、見上げるおネギの、あちこちを三角にとがらせた顔が見えたからであった。


 口の中身を飲み干して鴨兵衛、体裁整えるようにコホリとせき込んで見せる。


「……人違いではないか?」


「いえいえあってますよ鴨兵衛さん」


 不意に名を呼ばれてドキリとする鴨兵衛、しかし大会参加の時に名乗ったのを思い出し、さほど不思議ではないと取り戻す。


「いやはや、実に見事な食欲で、あの二人がいなければぶっちぎりで優勝でしたのに、惜しかったですね~」


「世事はいい」


「いやほんとだって~」


 やたらと距離間の近い女に、鴨兵衛戸惑う。


 それを見切ってか女はからかうように笑ってみせた。


「それでさ、まだまだ食べられるでしょ?」


「まぁ、な」


「だったらさ、今日じゃないけど、他の大会に出てみない?」


 この言葉に、鴨兵衛は初めて体以外で女に興味を引かれた。


 それを見透かしてか、女はニヤーと笑う。


「この町って、これから十日ほどあちこちでここみたいな大食い大会開いてるの。料理も色々で、勝てば賞金出るんだよ。で、どう? 興味あるならいくつか紹介してあげられるよ。おまけに滞在の間の宿屋も案内するし、それぞれ大会の参加料も出しちゃう!」


 この言葉に鴨兵衛、怪しむ。


「いやんそんな疑わないでよ~」


 女、くねりとした動きでポンと鴨兵衛の肩を叩く。


「あたしはさ、その大会の主催者に雇われてんの。そこはここと違って賭博やってててさ」


「八百長か?」


「違うってば最後まで聞いてよ。ほら、大会も長くやってると参加者ってみんな顔なじみばっかになっちゃうわけ。それだとある程度実力わかってるからあんまり賭けにならないわけ。そこで新規の参加者、それも実力者を入れることで勝負がわからなくなるの。それに賭ける先が増えれば掛け金も分散されるじゃない? それって負ける人が増えるってわけで、そしたら胴元大儲け。だからあたしの仕事は連れて行くまで、だから勝っても負けても関係ないのだから八百長みたいな面倒なのはいから、安心してよ。あ、でも参加した大会で賭けられるのは自分だけだからね~」


 都合のいい話、その影に何かあるものだと鴨兵衛は学んでいた。ましてやこの乳、その影に何が待ち受けているか、慎重に考えていた。


 これに女は明るく笑いかける。


「そんな難しく考えなくても大丈夫でしょ? 別に負けても命取られるわけじゃないんだしさ。最悪でもお腹いっぱい食べられるわけだし。それに大会が気に入らなければ断ってくれてもいいんだよ? でもさ、お金は必要、でしょ?」


 そう言って女、胸を突き出すようにのけ反ると首を伸ばして鴨兵衛の向こう側を覗き込む。


 そこに置かれてあるのは、鴨兵衛が腰より抜いた黒塗りの鞘であった。


 その鯉口は空洞、鴨兵衛は刀無しであった。


 しかしそれには深い理由があって、かといってお金がないのは事実であって、かといってこの女について行くのは、それにおネギがメチャクチャ不機嫌な空気を醸し出していて、だけどもこの機会を逃すのは、グチグチ考えてる間に女はひょいと立ち上がる。


「じゃあそ~ゆ~ことで決まり!」


 乳が、揺れた。


「あたしは早桃さもも、これからしばらくよろしくね。あ、もう食べ終わった? じゃあさっそく宿屋へ案内するよ」


 そう言って背を向ける女、早桃の尻もまた豊満であった。

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