鴨兵衛、漢の闘いに水を刺した。

誰一人として見向きもしなくなったのであった。

 太平の世より前、戦乱の世が始まるより前の時代、人々は主に田芋を育て、食べていた、と古文書には残されていた。


 今でも育てられているこの芋は、育てる難易度は普通ほど、暑さに強いが乾燥に弱く、植えてから収穫までに半年、春の終わりに植えて夏の終わりに収穫できた。調理も簡単、そのまま茹でるか、皮をむいて炙り焼けば美味しく頂けた。


 しかし田芋は腹持ち悪く、輪作が利かず、カビや虫が湧きやすく、芋自体が柔らかいため多くを積み重ねると下が潰れる等、保存には不向きであった。


 そこで代わりに伝わったのが『米』であった。


 芋とは違い、水を張った水田を必要とし、育てるのも田植えから雑草抜き、刈り取った後も脱穀等、手間暇がかかる上にそうまでして手に入れた米も更に研いで、そこから水をたっぷりで炊くか煮て粥にしなければ食えぬ白もろであった。


 だが半面、米は腹持ちが良く、輪作が可能で、乾燥させれば芋よりはカビや虫が湧かず、乾いた米は硬いので米俵にして雑に詰むことができ、そのままで二年は保存ができた。


 加えて田畑からは米以外にも稲わらやタニシ、小魚等が取れ、残る泥土も捏ねて粘土にし、焼いて陶器にと有益な副産物が多く付随した。


 何よりもその味は、美味であった。


 炊いても粥でも立ち上る香りは他にたとえようもなく、噛めば甘味が広がり、これに塩気の効いたおかずが加われば万民等しく幸せであった。


 そうして広がった米、稲作であったが、下々のものたち、特に育てている農民の口に入ることは稀であった。


 戦乱の世では戦火は文字通り田畑を焼き、働き手は兵士として連れていかれ、あちらこちらで略奪が横行、それらを掻い潜りなんとか残った米も結局は年貢として根こそぎ奪い去られていた。


 それが太平の世になって戦はなくなり、幾分マシにはなったものの、それでも年貢に多くを取られるのは変わらず、今なお農民の口に入るのはごく限られた祭事のみであった。


 その祭事の一つ『収穫祭』の時期がやって来た。


 季節は秋、今年は去年に続いて豊作、年貢に召し上げても十分頬張れる量の新米、これまでの苦労が文字通り実ったことと、少なくとも今年一年は飢餓に苦しまなくてすむとの安堵、合わせて農民たちはお目こぼしの米を大いに喰らった。


 そしてその祭りは港町の傘島にも伝わっていた。


 各地で集められた年貢の米俵は海を通してこの地に集められ、倉に収めた後に米問屋に卸されて陸路を通って各地に運ばれるのだが、この倉に収める際、その前に中を出さねば入れられぬが道理であった。


 そうして放出されるのは備蓄米、災害などに備えて保存してあった古米は、新米の収穫によってその価値が暴落、安く売られてるのをいいことに普段食えない町人たちが有り金叩いて買い占めて、腹いっぱいに喰らうのがこの地の収穫祭、だったのだが、それが何時しか誰が一番食えるかの張り合いとなり、そこに商人たちが商機を見出した上、荷船に乗ってきた船乗りたちの緩んだ財布が絡んだ結果、この時期のこの町では各地で『大食い大会』が開かれるようになった。


 ……そのうちの一つ、毎年開かれている『お勤め大会』は今、最高潮に達していた。


 青空の下、海に面した倉の前、横に並べられた畳に座する参加者は十人、食す料理は例年通りの『握り寿司』であった。


 本来味も香りも新米には劣るとされる古米だが、それをあえて好んで用いるのが酢飯、焚いた飯に酢と塩を眩して保存性を増すこの料理には新米の香りは強すぎて合わず、あえて古米を用いるのが通とされた。


 それを握飯のように握り固めた上に乗せるは同じく備蓄食、お勤めを終えたアサリの佃煮であった。貝のアサリのむき身を塩で煮しめたこの料理は長期に保存できる上、飯との相性は抜群であった。


 これら二つを合わせた握り寿司は毎年出されるおなじみの料理、それを頬張る顔ぶれもまた、そのほとんどが地元民、顔なじみ同士であった。


 その中でなお注目を集めるは右端に並ぶ二人、その間には因縁があった。


 まず右端にいる又八はこの町の近くの漁村に住む漁師であった。


 大きな体は鍛え抜かれており、腕も確かな漁村の顔役であった。しかしながらその収入は同じ船に乗りながら荷船の船員に比べると微々たるもの、他の漁師共々格下とされ、それを見返すための大会参加、実力は誰もが認めるものの、去年は二位に終わっていた。


 そして一位だったのが、その横に並ぶもう一人の男、清輔、その父親の清吉で、親子は代々続く米問屋の七代目と八代目、この大食い大会を主催する側でもあった。


 清吉は商人でありながら恰幅のいい男で、大会を開くほどの太っ腹で人気があるのと同時に大食いで他を圧倒する男気も併せ持っていた。しかし寄る年波には敵わず、去年の冬に足を痛めたのを機に隠居をし、後を一人息子の清輔へと譲ったのであった。


 しかしながらこの清輔、父に似て気立て良く、そろばん勘定もよくできるのであったが体の方が虚弱、食べる量も子供と同じかそれ以下と小食で、とても大食い大会に出られるような器ではなかった。


 その清輔があえて大会に出た理由は、又八の妹のお又にあった。


 清輔とお又、二人は幼馴染であると同時に互いに思い合う恋人同士でも会った。


 その二人が清輔が後を継ぐのをきっかけに祝言を上げようと考えるのは当然の流れ、しかしそれに反対するのは又八と清吉の二人であった。


 又八からすれば可愛い妹をひ弱な跡取りなんぞに任せられぬとの思い、清吉からすれば跡取りがいいように操られてしまうのではないかという思いから、その二つを一度に払拭する方法がこの大食い大会であった。


 又八よりも多くを喰らい、勝つことで男気を見せて双方の思いを打ち破る。


 そのために清輔は仕事の合間に体を鍛え、並々ならぬ思いでこの大会に挑んでいた。


 その凄み、覚悟、二人の行く末を案じる周囲、それらを跳ねのけ又八は喰らいに喰らい、立ちふさがった。


 最早、この大会は二人のものであった。


 他の参加者もそのほとんどがその手を止め、二人の決着を見届けようとしていた。


 しかしながら、限界は料理の方に来た。


 ……この大会では食べられなくなるまで食べ続け、その量が多い方が勝者となった。


 故に食べ続ける二人がいる限り終わりはないのだが、その前に料理の方、佃煮が尽きてしまった。


 このようなことは想定外、かといって両者引き分けでは収まりがつかぬと急遽追加されたのが鰯の刺身であった。


 ここらの海ではそこらに適当に網を投げれば取れる、雑魚の筆頭とされる鰯は、日持ちもしないことがあってあまり食されず、せいぜいが日干しにして保存食とするか、あるいは絞って油を集めて灯りに、搾りかすを畑に撒いて肥料にする程度の価値しかないと思われていた。


 しかしながら鰯は、獲れ立て新鮮な身はかなりの美味であり、それを三枚におろしてすりおろしたショウガと共に醤油に漬けて食せば鯛にも劣らぬご馳走になった。


 その鰯の刺身、大急ぎで捌かれ、酢飯と共に握られた握り寿司、大皿に乗せられたのを運ぶのは緑の着物を着た幼女であった。


「そっちじゃないよおネギちゃん!」


 列の左へ向かおうとしていた幼女を捕らえたのは見守るものの内の誰かであった。


「言えこれは、兄の、鴨兵衛の分で」


 おネギと呼ばれた幼女の返事に誰も耳を貸さず、代わりに次々と手を伸ばしてその身を捕らえ、向かう先を白熱している二人の前へと修正した。


 その手の大皿へ、伸びる手は二人同時、寿司を掴み、口へとねじ込み、頬張って、かみ砕いて、飲み込んで、次へと手を伸ばし、次々平らげて、瞬く間に空となった。


 決着はまだであった。


 盛り上がる大会、立ち上る熱気、誰もが二人に夢中になる中で一人、違う理由で熱くなっている男がいた。


 参加者の一人、おネギが兄と呼ぶ左端、名を鴨兵衛、飛び入りの旅の侍で、熊のような巨体の大男、そして二人の戦いに興味を持たない、ほとんどではない唯一の一人、胡坐を組み座して目を瞑っていたかと思えばドン、といきなり畳を叩くや頬の刀傷を歪めて大きく吠えた。


「いいから! 俺の! 次を! 持ってこい!」


 初めは驚きと畏怖、けれどすぐに無粋だと眉を顰められ、次の歓声に呑まれた後は、誰一人として見向きもしなくなったのであった。

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