呼ばれたように振り返った。

 竹札が当たりか外れかと判明し終わった昼、みなで燃え上がる焚火を囲みながら、ザワザワと雑穀粥を啜る。


 当たりを引いたものはそそくさと神社を立ち去り、外れを引いたものは外れの竹札を焚火に放り込んで、その炎で煮た雑穀が湯を、慰めの意味を含めて貰うのがここでは恒例のようであった。


 その中で一応、当たりを引いたが、手放して徳を手にした鴨兵衛も混ざり、啜ることができた。


 今度の雑穀粥は桜色、早速手放した醤油が混ぜかけられ、独特の塩味と風味が加わりぐっと美味くなっていた。


 まぁこれで、無事に終わるならそれに越したことはないと、鴨兵衛の表情はつきものが落ちたかのように穏やかであった。


 そこへ、おネギがやってくる。


 もう着替えて巫女姿ではなく、いつもの萌黄色の着物、両手で粥の入った竹の器を持って、その両脇にはそれぞれおネギと鴨兵衛の風呂敷包みを挟んで持ってきていた。


 旅立ちの準備、これから出るには日が傾きすぎているが、しかしこれでまた一泊すれば未練が残る。


 十分な時間などないのだからさっさと旅立つのは、吉だと、鴨兵衛もわかっていた。


 だから何も言わない鴨兵衛の横におネギは来ると、トサリトサリと荷物を覆いて、持ってきた雑穀粥をフーフー拭いて冷ましてから、スゥっと啜る。


 その横顔、背丈の差から覗きこめない鴨兵衛、それでも気に成りながら横目で見つめつつ雑穀粥を啜り続ける。


「なんだおぬしら、もう発つのかい」


 突如背後からの声に鴨兵衛、大いに噎せる。


 喉の奥に入ったキノコの塊が鼻の穴を逆流し、せき込む息押し出されて鼻水まみれに出てきて、人知れず器の中へと戻った。


 その姿を老巫女、愉快そうにカカカと笑う。


「まぁ今から出れば隣の宿場町まで何とか間に合うかね」


「それは」


 色々と言いかけた鴨兵衛、しかしそれらを飲み込む。


「迷惑をかけた。それに世話になった」


 粥の器を右手に鴨兵衛、深々と頭を下げると、隣のおネギもそれに続いて頭を下げる。


「よいよい。まぁ賽銭箱はあれだが、それ込みで二人とも良く働いた」


 笑う老巫女はジャラリと紐で一括りに固めた銭を投げ渡す。


「こいつは弁償した分の余りだ。持っていくがよい」


 そんなはずはないと、頭の中で計算済ませた鴨兵衛は導き出す。


 それを知ってか老巫女はニタリと笑う。


「あって邪魔になるものでもないだろ? 何、ワシも徳を積みたいだけなのだよ」


 こうまで言われたのなら、鴨兵衛はもう頭を下げて受け取るしかなかった。


「よしよし。おネギも、いいかい? 覚えたことは忘れるもんさ。だから暇があったら地面にでも字を書いて練習するのだぞ? よいな?」


「はい」


 コクリと頷くおネギにも、老巫女は笑いかける。


「それじゃあ二人とも達者でな。気が向いたらいつでも戻ってきても良いぞ」


 そう言い残すと老巫女、手を振ってあっさりと、二人の前から立ち去った。


 人込みに飲まれ、囲う人たちに応えるその後ろ姿に、二人はもう一度、頭を下げた。


 ◇


 ……周囲のみなは神社に集まっているのか、神社の外は静まり返っていた。


 竹林を抜けて田畑の広がるあぜ道を、鴨兵衛とおネギ、トボトボと歩いて行く。


 田んぼには植えられたばかりの苗が小さく並び、縁にはこれから植えられる苗が置かれあった。


 見るからに作業の途中、恐らくは富くじが終わり、あの粥を食べ終わっら戻ってきて、この続きを始めるであろう。


 そうなる前にと足早に二人は進む。


 別に、彼らに見つかって困ることももうないのだが、それでもできれば会いたくないなとの思いがその歩みを急かしていた。


 だというのに、ふと鴨兵衛は立ち止まると、呼ばれたように振り返った。


 遠くに見える竹林、そこから天へと延びる焚火の煙、耳をすませばまだあの喧噪が聞こえてきた。


「……名残惜しいですか?」


 問うは隣に並んで止まったおネギ、問われた鴨兵衛は、これでは立場が逆だと苦笑いする。


「おネギはどうだ? あの神社に、残りたいのではないのか?」


 問いに問い返す愚行、だが幼いからか、おネギは気にせずに応える。


「楽しかったです。文字も教えてもらえましたし、可愛い巫女の服も着れました。あの雑穀粥はもう少し」


「よい人でしたね。兵藤様、巫女という人たちは、あのように賢い人たちなのですか?」


「む?」


 問われて言葉に詰まる鴨兵衛、聞きなれぬ名に、そうかあの老巫女、名を訊ねるのを忘れていたなと思いたつ。


「あ、そうでした」


 おネギ、はたりと背中の風呂敷を下ろして前へ、中に手を入れてガサゴソ、そして引っ張り出したのは二冊の本であった。


「兵藤様より頂きました。こちらは習ったことが書かれてあって、事あるごとに読み返して思出せるようにと、それとこちらは鴨兵衛様にと」


「俺にか?」


「はい」


 応えて手渡そうとしておネギ、引っ込め躊躇する。


「申し訳ありません鴨兵衛様、これは夜にこっそりと渡すように言われていました。そうしないと、読む前に食べてしまうと」


「何を言っている。俺が本など食うわけなかろう」


「そうは、思ったのですが」


 口淀み、迷った挙句、おネギは鴨兵衛に本を手渡した。


 丁重な本、綺麗な表紙、横から見る限り文章ではなく、版画刷りの絵本と見えた。表紙には達筆な字で難しい単語が並んであった。


 その中で目を引く単語、唯一鴨兵衛が読めたのは『春画』の文字だけであった。


 バリバリ、ムシャムシャ、モッモッモ。


「…………本当に、食べるのですね」


 目を大きく見開き驚きのおネギ、その目の前で涙を流しながらも間食する鴨兵衛、微妙な空気、それにクスリとする。


 だが、その空気はすぐに消し飛んだ。


 ガバリ、緊張と警戒を持って二人、そろって振り返る。


 …………その視界に、走るものが見えた。


 一列、竹林から飛び出して、鴨兵衛たちから見て浸りて側へ、欠ける姿は馬、それに跨る男らの姿であった。


 そしてその中に、あのナメクジのような坊主の姿がはっきりと見てとれた。


 途端、二人は顔を見合わせることもなく、元来た道を駆け戻った。


 ◇


 竹林に入る前からすでに悲痛な叫びと燻される臭い、踏み込めば惨状であった。


 そこここに転がる怪我人、見たところ出血こそ少ないが明らかに骨折しているものがちらほらと、囲うものたちもいるがどう治療したらよいのかわからずオロオロしているだけであった。


 そんな彼らを派手に照らす灯りは、燃え盛る神社の本殿であった。


 焚火から燃え移ったのか、天をも焦がさんかと立ち上る赤い炎、そして吐き出される煙は、悪鬼羅刹としか見えなかった。


 この惨状、どこから手を付けたらよいのか鴨兵衛、途方に暮れる。


 その袖を強く引く手、無理やり向けさせられた前に猫巫女がいた。


「あの中に、巫女様が」


 鳴きそうな表情、絞り出された声に、鴨兵衛の今なすことが決まった。


 本殿へ、炎へ、老巫女の元へ、一切を振り払いかける。


 そしてたどり着いた手前、焙る炎はその気概を竦めるほどに熱く、このまま飛び込めば共倒れは必至であった。


 せめて水をと鴨兵衛、視野を走らせ桶を見つける。


 あの倉庫にあったものと同じ、ならば中身は汚いかもしれないが水に相違ない。


 躊躇いなく鴨兵衛、駆け寄り手を伸ばす。


「お待ちください!」


 そこへ飛び込み、遮るはおネギであった。


「おネギ!」


「違います!」


 大声に大声で返しておネギが退き、そして小さな手が指さす桶の側面には、やたらと達筆な文字で『清酒』と読めた。


 ……神社では、お清めに酒を用いることは珍しくはない。その際に火が点くほどに強い酒を用いることもあるが、その手の酒は総じて高い。この神社にそれほどまでの酒があるのか、なければそれでもかぶれは水がわりになる。


 逡巡する鴨兵衛に、おネギは奥に隠れていたもう一つの樽を向ける。


「あちらを」


 どちらか賭博するよりはマシ、鴨兵衛は指示されるがまま、もう一つの樽を掴むと頭より中身を被った。


 醤油であった。


 よく見ればこれはあの時の二等、神社に寄付したもの、それがまだここに置かれて、今は鴨兵衛の前身をねっとりとさせていた。


 醤油も焦げる。ただしそれは煮詰めた時であって、その前ならば水と同じ、むしろこのべたつきは剥がれにくく、より長く肌を炎から守るであろう。


 嘘か真か、己の頭に浮かんだ考えに疑問を向けるより先、鴨兵衛は燃え盛る炎へと飛び込んだ。


 程なくして、辺り一面に醤油の焦げる良い香りが漂った。

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