コロリ転がっていた。
……平一にも、にわかながら黒い知識があった。
顎の先を掠めるように殴りつけると、首が支点となるテコの原理が働いて、頭蓋の中身が揺れる、いわゆる脳震盪を引き起こして気を失うのだそうだ。
また別に、自害する際、舌を噛み切るのは出血ではなく、神経が切れてひきつけを起こし、飲み込んでの窒息が死因となるのだそうだ。
そして人とは、手足が千切れても、腹に穴が開いても、その後助からないだけで、すぐに死ぬわけではないのだそうだ。実際、隻腕やら義足やら、あるいは見事な傷の跡を見せられたこともあった。
そういった、旅の道中あちこちで聞きかじった黒い知識、敵討ちに必要と思い、繰り返し思い返しては、それをどう使えるか思いをはせてきた。
旅の間、本気で仇をとるつもりでいた。
しかし、だからといって、目の前の光景に耐えられるものではなかった。
下顎失い仰向けに倒れた水源、胸の上下でまだ生きあるとは見えていた。その胸は血まみれで、その上にだらりと伸びるはむき出しとなってさらけ出された舌であった。そしてそこより遠くに飛び散り転がる赤と白の肉片の中には、本当ならば唇をめくらなければ見えないはずの歯茎が、コロリ転がっていた。
人体の破壊、それも歪な形での、生々しい傷口に、平一は耐えられなかった。
この想像すらしてこなかった現実を見せつけられ、積み上げてきたモロモロをがらりと崩されて、気が付けば平一、腹の奥より混み上がるものを吐き出さぬよう、両手で押さえながら走っていた。
向かったのは目の前の樽、中には水と、泳ぐ烏賊、その中へ、吐瀉する。
人を傷つけることは、敵討ちの段階で覚悟を決めていたはずだった。しかしその時思い浮かべていたのは、もっと綺麗な破壊であった。
喉の感触、舌の味、鼻の奥に逆流しての痛みに、息苦しさ、ただ感じながら、想像していた現実を思い返す。
それは、例えるなら、魚を三枚におろすような、きっちりと部位と部位とを切り分けるような、直線的な傷口、それも刃物による、骨まで届かず動脈を斬るだけの、損壊の少ないもののはずであった。
それが、と思い直す度、閉じた瞼にありありと思い浮かべてまた吐瀉する。
朝より水しか飲んでない平一は透明な粘液しか吐き出せなかったが、それでも汚物と中で泳ぐ烏賊たちが次々に
ゲボゲボとせき込み、涙ぐみながら目を開いた平一が見たのは、そんな黒に染まった水面に移る、みじめな己の姿であった。
「これが、俺の道だ」
その背に、語り掛けるは鴨兵衛であった。
「どこへ行っても何かを壊す。それが物なら、取り返しのつくものならまだいいが、それ以上のこともしばしばだ。そのくせ、壊されるのが我慢ならん。そうやっていらぬことに首を突っ込んで、ぶち壊して、そして逃げる。これが俺の道なのだ」
静かに、自嘲の混じった、寂しげな声、耳にする間あの映像を忘れられたが、だからと言って平一は立てなかった。
「平四郎殿の、父上の元に戻るがいい」
はっきりと、改めて、鴨兵衛は平一を突き放した。
「あの男は、俺が持てないものを持っている。人に取り入り仲良くなり、昨日今日の相手と酒を酌み交わすなど、俺にマネできることではない。確かに最後の果し合いは危なかったが、それでも相手側に単身乗り込める勇気は立派なものだ。何より結果として、俺を動かした。そこまで頭にあった行動なれば、最早それは物の怪の領分だがな」
語る鴨兵衛の声は、少なくとも平一が知る限り最も楽しそうな、笑っているような声であった。
「そんな父上が怪我をしている。それにお前のことを心配もしてるだろう。戻って、残りの旅を終え、今日のことは忘れて後は平穏に暮らすが良い。そして目指すなら、俺よりもあのような男を目指すのだ」
ザスリ、足音、立ち去る音、ならばせめてそちらに顔を、と思う平一であったが、更なる吐瀉がそれを阻んだ。
「……それに、仇として追われる旅というのは、赤の他人に勧められるものではない」
最後の一言、これにはとやっと顔を樽より引き上げた平一、しかしそこには既に鴨兵衛も、おネギもなく、ただ横たわる水源だけが残されていた。
そして静寂、動くもののない大通り、残された平一は一人でに泣いていた。
地面にへたりこみ、さっきまで吐いてた樽に凭れて、右手で額を押さえながら、まるで子供のように、子供らしく、溢れる感情を押さえようと努めても涙はホロホロ溢れて、顔は赤く、呼吸は乱れて苦しくて、水面を見なくてもわかるみっともない顔となっていた。
それは恐怖とも、苦痛とも、違った感情、しいていうなれば『情けない』思いでいっぱいであった。
あれだけ偉そうなことを言って、結局何もできなくて、ただ見ることすらこの有様で、挙句に諭された自分、ただただ情けなかった。
この姿、見られたら腹を切るのが武士、ふと冷静な頭のどこかで考えながらも感情は治まらず、最早涙を拭うことすらできなかった。
そこへスタリ、足音、逃げるか隠れるか腹を切るか、しなければならないとわかっていてもできない平一に影がかかった。
それに、そっと見上げた先にいたのは、顔を赤くはらした父上、平四郎であった。
その表情、影に加えて晴れててわかりにくいが、それでも安堵していると、息子の平一には何となく伝わった。
そして無言で差し出されたその手を、普段ならばはずがしがって取れない手を、この時ばかりは平一、素直に掴んで助け起こされた。
それだけで、不思議と平一は楽になっていた。
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