それは手長海老であった。

 石沼町、というだけは合って、山を進むとすぐに岩だらけの沼にとたどり着いた。


 沼、とは言っても水は清らかで、岩の底が見えるほど、周囲は木々が生い茂り、その隙間には清流が流れ、涼やかで良い香りの空気が満ち満ちていて、心地の良い水辺であった。


 夏の日差しと蝉の鳴き声が重なれば思わずひと泳ぎしたくなる清流に、八吉を先頭にして三人、汲み桶に桶を携えやってきた。


「ついたっすよ」


 梶朗、答えながら持ってきた桶に水を掬う。


 その動作で鴨兵衛、察する。


「釣りか」


 それに応える代わりに八吉、どこぞに隠し持ってた出刃包丁を引き抜き、草むらを薙いだ。


 途端に広がる血の臭い、広がる草むらに手を突っ込む八吉が引っ張り出したのは、喉を掻き斬られたガマガエルであった。


 それを宙に吊るしたまま手早く解体、鈍い刃が息の根を止め、肉を剥がして小さく切り分けると、八吉は己の長い髷より髪を一本引き抜くや括り付けるやポチャリ、その血が滴るより先に水面へと落す。


 そして数度、上げ下げしただけで引き上げると、カエルの肉にもうかかっていた。


 親指よりも太く、どの指より長い本体、赤黒い甲殻、長い触角に蠢く足、何より目立つはその長い長いハサミを持つ腕、それは手長海老であった。


「見事なものだ」


 思わず感嘆の声を上げる鴨兵衛の前で八吉、素早く肉より海老を剥がすと水の張られた桶の中へ、そしてカエルの肉を付け直し、またポチャリと落す。


「ここらじゃアニキよりすごい海老釣り人はいないっす。それに何でも知ってるっす。ね?」


 梶朗の言葉にチラリと目線を向けた八吉であったが、すぐに糸へと戻し、また一匹釣り上げる。


「……この手長海老は雨上がりの夜が一番動く。その時落せば素人でも獲れるが、俺がやると根こそぎだからな。こうして大人しい昼間で加減してやってるんだ」


 語りながらも無表情を保とうとする八吉であったが、それでも口の端がにやけて吊り上がりそうなのを必死に堪えているのだと、鴨兵衛には見えた。


「やってみるか?」


 上機嫌な八吉に余ってた釣り竿を投げ渡された鴨兵衛、だが受け取り掴むと同時に握り折っていた。


 ……幸い八吉に見られてないことを幸いとして鴨兵衛、梶朗に投げまわし、まわされた鴨兵衛は目をひん剥きながら草むらへと投げ入れ隠す。


 そうしている間にも気づかぬままにまた一匹、だけども手に取るや八吉、沼へと返す。


「子持ち、卵持ちはとらねぇ。こいつまで取っちまったら次がねぇ。相手が立ち直れないほど獲るのは外道がすることって教わってな」


「……それは、錆鼠一家か?」


「他に誰がいるってんだ」


 八吉、嬉しそうに懐かしそうにほおを緩めて、語り始める。


「親分は盗人だけどよ。一流の盗人なんだ。貧しいものからはとらねぇ、狙うは金持ってふんぞり返ってる大商店に武家屋敷ばかり、もちろん殺しも放火もしやしねぇ。ただちょろっと多すぎる銭をもらい受け、貧しいものに配り歩いて、その残りで飯にありつこうっていうのが親分だ。行く先のない俺らを引き取ってくれたってのは話したよな?」


「あぁ、昨日聞いたな」


「親分はよ。義理人情の人なんだ。盗人が褒められた仕事じゃねぇのは知ってるが、それでも俺は親分にあこがれてる。その憧れの人があの宿屋で待ってろって言われりゃあ、そりゃまつさ」


 語る八吉に狂犬の面影はなく、むしろ夢を語る子供の用に輝いていた。


 そんな顔を見せながらもまた釣り上げて、カエルの亡骸が半分になったころ、見れば桶の中は手長海老でいっぱいになっていた。


「今日は終いだ。これ以上釣ったって置く場所がねぇ。こいつら狭いとこに押し込めると喧嘩して共食いするからな。ここらが限度だ」


「さすがアニキっす。お見事っす」


「馬鹿言うな。おめるならこれを持ち帰ってから言いやがれ」


「それなら俺がやろう」


 折れた釣竿を誤魔化せたまま、左右挟んで二人で持ち上げようとしていた八吉と変り鴨兵衛、桶の下に手を入れる。


「そりゃいいっすけど、これ重いっすよ? ちょっとやそっとじゃ上がらないっす」


「承知した。まぁみておれ、それでは、一、二の、三!」


 合図に同時に立ちあがった鴨兵衛と梶朗、しかし同時なのは立ち上がりの瞬間だけであった。


 確かに重い桶、水に海老にと入っていれば重量はそれなりなのだが、それを無視する馬鹿力が鴨兵衛にはあった。


 普通ならよれよれと立ち上がるところを何もないかのような加速、加えて正面の梶朗との身長差も重なって、片方だけが生き酔い翼上がった桶は破裂するようにひっくり返った。


 ぶっかけられた梶朗はびしょ濡れとなり、一度に流れた水は悠々と、これまで捕らえた手長海老が波に乗って沼へと帰っていく。


 全てだいなし、謝り続ける鴨兵衛に、濡れて震えてくしゃみする梶朗、二人を背に、怒りが一周回って無言となった八吉、そして釣り竿が一本ないことに気が付く。


 怒りに顔が赤くなる八吉だが、暴れず騒がず、ただ釣り糸を垂らし直した。


 それでも釣りの腕は冴えていて、残りのカエルを使い切り、見事に再びいっぱいに吊り上げて見せた。


 ◇


 宿屋の裏よりは行って奥まった場所、名を付けるならば中庭と言った場所に沢山の桶が並べられていた。


 縁がかけたもの、うすら汚れたもの、合わせれば銃は超える数、大きさ深さから、これらが足を洗うのに用いられる桶であった。恐らくは元よりここで使われていたものもあるのだが、壊れたからいらないと捨てられてたものも混じっていた。


 その桶一つ一つの上には木の葉が蓋のようにかぶせられていて、めくると中に水が、その中には沢山の手長海老が潜んでいた。


「一つでもひっくりかえしたらぶっさす」


 それを覗き込む鴨兵衛へ、八吉は本気の警告を放った。


「わかっている」


 これに両手を上げて身を引く鴨兵衛、蹴れど目線は桶の中に留まっていた。


「……こいつらは暗がりを好む。それにこの暑さじゃ参っちまう。だから葉を乗せ日陰を作ってやってんだよ」


「これは、飼っているのか?」


「馬鹿言うな、食うに決まってんだろ。ただこいつらは釣ったばかしだと臭くてまずい。だから少し寝かせておくんだよ」


「なるほど、泥抜きというやつだな」


「何言ってんだお前は、さっき見てきたろ? こいつらは綺麗な水にいたんだ。泥なんか抜けねぇよ。吐かせるのは糞だ。上方じゃあお上品に背ワタなんざ呼んでるが、結局は腹ん中に残ってる糞の事なんだよ」


 食べ物に対する下品な言い回しに眉を顰める鴨兵衛だが、言っている八吉は気にしない。


「ここらのやつらはこのエビが臭い臭い言って食わないが当然だ。糞が入ったまま食ってんじゃあ糞食ってんのと一緒、糞が匂うのは当たり前だ。俺は糞を食いたくねぇから糞を取り除く。だが糞を切り取るのも限度があらぁ。だからこうして餌のない場所で、新たな糞を作らせず、古い糞だけをひねり出させて腹ん中空っぽにして糞なしにしてんだよ」


 そう言いながら八吉、一つの桶より葉をどける。


「見ろい。この黒いのが糞だ。見てるとケツからひねり出すぞ。これがあるから臭い。だから食わさず出させるだけださせるんだが、全部出させるのに一日二日かかるが、それ以上だと空腹で共食い始めちまう。気が付いたら一匹減ってる上にまた糞が溜まってやり直し、そうならないように小まめに見て回って、水も変えなきゃならねぇ。それで食い時なのはこいつとこいつだな」


 ひょいひょいと海老を見繕い、摘み上げていく八吉、傍らに置かれた、水だけの桶へ移し替えていく。


「後は米丸の仕事だ。あいつ、米はからっきしだが、こいつの料理だけは美味いからな」


「待て。ならなぜ」


 ……言いかけた鴨兵衛、勝手にやめ、そしてズサリと身構えた。


 眼光鋭く睨む先、宿の建物の角よりひょっこりと顔を出したのは見知らぬ男、丸くて人懐っこそうな、子供のような顔立ち、頭に手ぬぐい乗せて背には合羽、その服装から旅のものと見てとれた。


「なんだなんだなんだなんだてめぇ! この八吉様の目の前で海老泥棒たぁいい度胸じゃねぇか!」


 八吉の狂犬の吠え声に慌てて見せる旅のもの、慌てて両手を上げて出てくる。


「これはうっかり、あっしはただ便所を借りようと」


「んだぁ? なら反対方向だろが! 来た道戻れや! あっちだあっち!」


 出刃包丁で先を指す八吉に、旅のもの、あわてて両手を上げた。


「これまた失礼いたしやした」


 歌うように韻を付け、旅のものは戻っていった。


「……なんでぇあいつは」


 八吉の問いに鴨兵衛は応えず、ただその消え去った先を鋭い眼光で睨むばかりであった。

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