まるで沼に沈むかのようであった。

 ……泊まる顛末も酷かったが、中もまた酷かった。


 先ず玄関、二人が入った段階で既にリンは背中を向けて奥へ、残り誰もおらず、誰も待ってはいなかった。


 残された二人に、奥からリンの声「お好きな部屋にどーぞ」だけが響き、後はほったらかしであった。


 この対応に鴨兵衛とおネギは、驚き、顔を見合わせ、そして嫌な予感をしていた。


 宿とは即ち商売、銭を貰って寝床を渡す。ならば客をもてなすのが通常、ここのように競争が激しいならば尚更だ。


 それでもこういう軽い感じもあるのかと思う二人であったが、それでも上がれぬ理由が二人の足あった。


 長旅、雨上がり、泥だらけの足と足、ぞうりにわらじを脱いだとて汚いものは汚く、そのまま上がるのは憚られる。


 普通は、宿でなくとも長く歩いた足を洗い、火照りを冷ますため、玄関に水の張った桶を用意するものである。特に土砂降りの後、ぬかるんだ道を歩いてきたあとなればなおさらで、洗わず上がれば叱責されるものである。


 にもかかわらず、無駄に広い玄関に板間には水も手ぬぐいも桶もなく、ただ泥の足跡がいくつか、濡れているものもあれば湿っているものもあり、宿のもものたちが無頓着であるとの証だけがクキリと残されていた。


 誰も足を洗っていない証、ここはそういう宿屋、ならば仕方あるまいとぞうりを脱いで上がる鴨兵衛に、遅れてわらじを脱いで続くおネギ、上がり込み、案内もなしに言われた通り、お好きな部屋を探しだす。


 ぼろいとはいえ、元々はかなり大きな宿屋だったらしく、玄関に廊下に各部屋と、どれも大きく広くはあった。


 けれども手入れの欠片も施されてないのは一目でわかるしまつであった。


 泥だらけの玄関を超え、埃の堆積した廊下を進み、穴だらけの障子を開けて入った部屋は、二十畳はあろうかという大広間、だけれどもよく見れば間間を区切る襖が取り払われているだけ、夕暮れに隠れて柱も立ち並んでいて、元は六つほどの小部屋に区切られていたとわかった。


 その広い室内には畳だけで何も、行灯や箪笥、籠に着物掛け、布団に座布団、宿に置かれてるであろう、生活に使うであろうものが、何もなかった。


 ただ広く、そこが夕日に赤く染まり、ささくれ立った畳にはいくつかの水溜、その真上を見れば天井に染みがあることから雨漏りだとわかる。奥に見える小山は、使えなくなった畳を剥がして重ねているだけであった。


 ただ日差しを遮れる屋根があるだけ、野宿よりはマシとの状況、それでもここが銭を払って寝泊まりする宿屋とは、到底思えなかった。


「あ、いたいた。探しましたよ」


 そこへ現れたのはリンである。


 口ぶりから探されていた様子、されど手ぶらなところから見るに、足を洗う場所が他にもあるのかも、と勘ぐる鴨兵衛に、リンはハイと渡したのは、千切れたまま持っていかれてた袖であった。


 ……言葉もなしに受け取る鴨兵衛、その上に更にハイと乗せられたのは細くて小さな針であった。


「夕食はすぐにできますからねー」


 そう言ってささと奥へと消えるリン、残された鴨兵衛の表情は夕焼けに溶けて見えない。


「……この後に及んで、どちらが悪いなどと言う気はない」


 独り言にしてはハッキリした口調で鴨兵衛、呟く。


「しかし宿屋のものが、まさか武士に、針仕事を押しつけるとは」


 言葉だけでは伝わりきらない意味合いを、声色で伝えながら鴨兵衛、息を吐く。


「兄上」


「頼めるか?」


「もちろんです。ですが」


 袖と針とを受け取るおネギの表情は夕暮れの中でも曇って見えた。


 その意味察した鴨兵衛は、ため息と気合を同時に吐き出し己の髪を一本、引き抜いた。


 ◇


 …………静かな室内、鞘だけを右隣りに置いて、左の片肌開けて胡坐で座る鴨兵衛と、その斜め後ろに座してチクチク針を動かすおネギ、風流とも取れなくはない何とも言えない時間が流れていた。


 二人に会話はなく、あったとしても短いやり取り、おネギが頼み、鴨兵衛が毛を抜くだけ、静かであった。


 そうしている間に、外が夕焼けから夕やみにと移り、いよいよ何も見えなくなろうという頃になったころ、不意にポっと、部屋の奥より灯りが灯るや、ゆらゆらとこちらに向かってきた。


 まるで鬼火のような揺らめきながら、続くドタドタとの足音が階段めいた空気を作らなかった。


「ささささ、御飯ですよー」


 元気な声と共に現れたリン、その手には鬼火に見えた行灯二つを吊り上げていた。


「少しお待ちを、もう終わりますから」


 と、おネギ、最後の針を通し、残る毛を縛って食いちぎり、袖を仕上げた。


 離れたおネギの手を合図に袖を通し直す鴨兵衛、満足げに頷いて見せると、おネギは闇の中でも輝くような笑顔浮かべた。


 そんな両者の前に行灯が置かれ、不意に明るくなった二人の前に、リンの背後に控えていた二人、米丸と梶朗がそれぞれ膳を置く。


 剥げた漆塗りの善の上に置かれているは箸が一善、それとキュウリの塩もみに白みその味噌汁、ありふれたと言っては何だが、ごく普通の献立であった。


「おら、飯は食い放題だ」


 ぶっきらぼうに言うは八吉、ばさりと木の板を畳に頬ると、その上にどさりと釜を置いた。


 そして蓋が開けられると立ち昇るは食欲をそそる香り、中身は玄米であった。


 ……農民にとって米とは年貢を納めるための作物、献上するものであって、口にするものではなかった。


 そんな米が口にできる場所は主に三か所、お上が米を銭に変えている都か、祝い事のある村か、あるいは職場町であった。


 集めた米を献上するには運ばねばならない。そのための旅路、金銭の代わりにその米を代金として使うことを、一部では認められていた。


 そうして零れた米を客に出すのは珍しくないこと、特にここのような大きな宿場町ならば専用の買取所があってもおかしくはなかった。


 それでも、そんな米が、玄米とは言え、炊かれて、そして食べ放題と言われれば、色めき立つ物であった。


 冷静を装いながら内心ではしゃぐ鴨兵衛、しかしそれもしゃもじが刺さるまでの間しか持たなかった。


 ぬちゃり、べた。


 泥、としか表現できない粘度で掬われ、こすり付けるように茶碗に練り込まれた玄米は、色めき立つような食べ物ではなかった。


「ささ、冷めないうちにどーぞ」


 リンの言葉、並ぶ膳、一瞬目を合わせる鴨兵衛とおネギだったが、覚悟を決めたようにそれぞれ箸を取った。


 最初に手を伸ばすは味噌汁、具は情け程度の青菜が少し、冷たく温く、味が抜けていて風味もなく、食えないわけではないが、美味くはなかった。


 そして次、いよいよ玄米、箸でつまもうとすると全てが張り付き吊り上がるべったり、それを掻きこむ鴨兵衛の奥歯が、硬いものをかみ砕いた。


 芯、火の通っていない証、それも一粒二粒ではなく噛む度に全て、満遍なくではなかった。


 ……とても食えたものではなかった。


「なんだなんだなんだなんだなんだてめぇ! 俺らが炊いた飯はくえねぇってのかよあ!」


 口よりも雄弁に語る鴨兵衛の表情に八吉は切れてまた出刃包丁を取り出し、それをまた二人が取り押さえる。


 それを前にしてなお口を開けない鴨兵衛の代わりに、言葉を選んだのはおネギであった。


「水が多すぎです」


 幼いながらもはっきりした物言いは、八吉を一瞬なだめるだけの説得力があった。


「多分ですけど、麦飯と同じ量で炊いてしまったんだと。それに芯があるのは途中でお釜の蓋をあけちゃったから、そうすると蒸気が逃げちゃって火が通らないんです」


 まるで見てきたような口ぶりに、心当たりがあると表情に出したのは米丸であった。


「いや、だって、なんかガタガタ言ってて、怖かったから」


 子供のような言い訳を流して今度は味噌汁を啜る。


「これ、沸騰させたのでは? お味噌は出す直前、具が煮えた後に溶き入れるだけで充分なんですよ。でないと香りなんかが飛んじゃいます」


 さらりとした指摘に四人、がん首揃えてヘェと感心する。


 それを前にして鴨兵衛、ハァと息を吐いた。


「なんだてめぇ!」


「それはこちらの言葉だ」


 八吉の恫喝を押し流すように、鴨兵衛が堰を切る。


「力づくの客引きはまだいい。喧嘩腰なのも今は目をつぶろう。だが肝心の宿はどうだ。この荒れ果てよう、人が住む場所ではない。その上でこの接客、飯は不味い、案内はしない、梁仕事は押し付ける。見ろ、足など泥付きのままだ。これが宿屋の仕事なのか?」


 溜まっていたものを吐き出され、意気消沈する四人を前に、流石に言い過すぎたと鴨兵衛、口を閉ざす。


「……仕方ないっすよ」


 気まずい沈黙を破ったのは梶朗であった。


「俺たちはみなみなしごに捨て子、身寄りのねぇ連中ばっかっすよ。学はもちろん、身の回りの世話なんか見たことなくて、料理なんかは見るか盗むか、そんなもんす。誰にも教わってなんだからできるわけないっすよ」


「……それが、何故ここで宿屋などやっているのだ? 仕事なら他にもあるだろう」


「それはっすね」


「親分を待ってるんだ」


 続けたのは八吉であった。


「リンは親分の妹だから少し違うが、俺たちはみな、錆鼠一家に拾われたんだ。その親分が常宿にしてたのがここ、そして待ってろって言ってたのもここだ。だから俺たちは親分が帰ってくるまで、この宿を残して、待ってるんだよ」


 ぶっきらぼうな言い方なれど、想いが伝わる言葉であった。


 それを前に、次の言葉が出てこない鴨兵衛へ、今度はリンが話しかけた。


「ねぇ鴨兵衛さん。だったらあたしたちに宿屋、教えてくださいよ」


 唐突な提案、ペコリを頭を下げるリンに鴨兵衛、目を丸くする。


「そいつぁあいい。賛成だ」


「そうっす。それがいいっす」


 米丸と梶朗、そろってシャラリ、けば立つ畳の上を擦り滑りリンの両隣に座るや、力を込めて頭を下げた。


「ささ、八っちゃんも、ささ」


 リンに促され、腕を組んでた八吉も、出刃包丁を後ろにしまうや渾身の力を込めて頭を下げた。


 これに鴨兵衛、狼狽える。


「待つのだ。俺は見ての通り武士であって宿のものではない」


「でもちゃんとしたお宿に泊まったことがおありなんでしょ?」


「あるには、ある。だがどれも安宿だ」


「だからいいんでさぁ。ここはその安宿以下だからまずはそこを目指して」


「目指すも何も、俺はただもてなされただけで何をどうするのかまでは」


「それっす。それが知りたいっす。宿でもてなされるってどういうことされたんすか? そっからっす」


「それにだ。俺たちは旅人、先を急いでるんだ」


「あら兄上、あたしたちの旅に期限も目的地もない、当てのない旅じゃあないですか」


 ……いつの間にかおネギ、宿の方についていた。


「よいではないですか、困っているようですし、いつも通りお助けすれば」


「おネギ、言っておくがこれまでの事、別に好き好んで寄り道してきたわけではないぞ。あれらはたまたま、何かを壊してしまって、その弁償のために仕方なく、だ」


「リンさん?」


「袖を破かれたのだ。それでお相子だ」


「あら。でしたら、こちらをお見捨てになるので?」


 おネギのからかうような口調、そしてその目が指示したのは、ずるいほどまっすぐな眼差して見つめてくる八吉であった。


 その目力に、鴨兵衛は怯んだ。


「とにかくだ。やらんもんはやらん!」


 子供の用に言い捨てて、逃げようと横に置いていた鞘を手に、杖として突き立て立とうとする。


 ずぶぶぶぶぶぶ。


 突き立てられた鞘が、畳を貫き飲み込まれる様子は、まるで沼に沈むかのようであった。


「畳、弁償?」


 おネギのからかうような、嬉しそうな言葉に、鴨兵衛はぼろい天井を煽った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る