鴨兵衛、潰れかけていた宿屋を潰した。

宿屋が文字通り傾いたのであった。

 戦国の世から早百年、全国統一がなされたこの小さな島国は太平だった。


 いがみ合い、敵同士であった国々は今や交易相手と変り、統一幕府の命により人と物とを運ぶ街道が全国津々浦々に張り巡らされるようになった。


 それでも旅は長く遠く、荷車もともなればなおその足は遅くなり、必然片道だけでも何日もかかるのが普通であった。


 当然、その間にも人は飲み食いし、そして夜は眠る。


 そんな旅人のため、街道の要所要所には宿ができ、それが集まり発展し宿場町として栄えて行った。


『石沼町』はその中の一つであった。


 西は大都市『墨虎』への検問所、東には同じく大都市の『翡羽』へとつながる重要な街道の、限りなく墨虎に近い位置にあり、宿の数は大小合わせて十を超え、それ以外にも替えの馬を売り貸しする馬場、旅人を相手とする商店に、花街に賭場、少しでも早くいいものを売ろう買おうという市場まで建てられていた。


 利用する旅人も多い時には三千を超え、時には町の外まで人が溢れかえるという、ここらでは一番人の集まる場所であった。


 当然そのような大通りは賑やかで、家が並んで三件は立つであろう道の両側に色とりどりの登りと看板、どの宿屋も二階建てで、開けて見える二階の部屋では遠目に飲めや歌えの宴会が見て取れた。


 それらの前を歩く旅人も、荷車従えた大行列に同じ白装束の巡礼者の団体、もちろん一人旅二人旅も混じって溢れて騒ぎ、まるで祭りを思わせる大盛況が常であった。


 しかしそんな大通りでも、夏の盛りの夕方、土砂降りの直後ともなれば、歩く旅人の数はまばらであった。


 どうせもうすぐ日が暮れる。道は濡れてぬかるんでいるし、濡れた着物も気持ち悪い。ならば早めに宿に籠り、早朝出発した方が効率が良いのだと、旅慣れたものほど知っていた。


 残り通りを歩くはそれすら知らぬか、思い付けない愚か者、あるいは先を急ぐものだけであった。


 それでも旅人は旅人、客は客、早々に団体客を迎え入れた大きい宿は別にして、まだまだ部屋に空きのある中小宿屋は少しでも空き部屋を埋めようと、各々宿は客引き放ち、声を張り上げ客を求めていた。


 ばら撒く餌は安さ、綺麗さ、料理の旨さ、宴会芸にその他色々、あれやこれやと工夫を凝らし、飢えた魚の如く、限られた客を我先にと奪い合っていた。


 そんな大通りに、ひときわ目立つ二人がのそりと現れた。


 一人は見上げるほどの巨漢であった。


 そこらの人より馬の方が近い背丈に、重ねた布団のように厚い胸、右頬に横へと走る刀傷が一つ、細かな部分は赤やけに塗りつぶされてよくは見えないが、それがかえって赤鬼のような仰々しさを浮き彫りにしていた。


 背には風呂敷、腰には黒鞘、足は泥まみれ、見るからに旅の浪人、無表情故に近寄りがたい雰囲気であった。


 それでも旅人、ならば客、いやしかし、声をかけるべきか否かを悩む客引きたちが次に目にしたのは逆に小さな幼女であった。


 夕焼けを弾く黒髪はおかっぱ頭をぴょこぴょこ揺らして歩くは十にも届かぬ幼女であった。


 巨漢の連れらしく時折振り返っては後に続く仏頂面に笑いかけ、話しかけている。


 その足もまた泥だらけで、ここまで長らく歩いてきたとは容易に想像できた。だけれどもそれを感じさせぬほどに、その動きは軽やかで、まるで弾んでいるかのようであった。


 そんな目立つ二人、旅の兄妹、あるいは親娘、少なくとも人さらいの類には見えなかった。


 ならば客、なのだろうか?


 幼女の登場に考え改め、けれども決めきれない客引きたち、彼らに答えをもたらしたのは、男の腰にあった。


 黒鞘、造りは立派、されども腰に刺さるは鞘だけで、収まるべき刀が見受けられなかった。


 つまり、男は刀無しであった。


 ……太平となった世でも、侍にとって刀は魂であった。


 使うかどうかは別にしても、刀の良し悪しがそのまま侍としての価値をと言われている中で、まがい物の竹光すら帯びていないはそれだけ困窮している証、あるいは寝込みを盗まれたのか、どちらにしても銭がない証であった。


 銭がないなら客ではない。客引きは正直であった。


 そうして注目を詰めながら誰からも声をかけられないでいる二人は奥へ奥へ、通りを西へ、墨虎方面へと進んでいった。


 通常なれば、大都市に近いほど栄えるものだが、宿場の場合は逆であった。


 そもそも、長旅の間に泊まるのが宿場なれば、その出発地点から近いほど体力と時間に余裕があり、何かしら不慮の事故が起こったとしても、だったら初めから取発しない物である。


 逆に、大都市から遠いのであればあと少しの距離を大事して休むこともあれば、都市内の宿のぼったくりを恐れてこちらで安く済ませることもあった。


 故に立地は大都市の墨虎より離れれば離れるほど好ましく、近ければ近いほどに寂れていた。


 その法則で言えば最後の方、限界まで寂れた、もう少しで街道に出てしまうという際まできた二人に、ようやく声をかける客引きが現れた。


「お二人さんお宿はお決まりですか?」


 軽く気さくな掛け声に少々の馴れ馴れしさを感じさせる客引きの名を、リンと言った。


 まだ子供と呼べる年ごろ、ほんのりとそばかすの乗る、あからけた顔に小さな眼、名の由来なのか八重歯の生えたその顔は、けっして美人ではないが愛嬌のある顔立ちであった。


 青色の着物に黄色の前掛け、たすきをかけて袖を縛る姿は見るからに客引き、それがにこやかな、だけどもぎこちない笑みを浮かべて、その決して大きくない体で二人の行方を遮った。


「まだお決まりでないならどうぞ、うちの宿をご利用くださいな」


 そう言ってリンが左手で指す先にあるのは、寂れたを通り越してまだ住めるのか疑問しかないボロ屋であった。


 立地こそ大通りに面しているとはいえ、瓦は崩れ、登りは裂け、梁は傾き柱も歪んで見える。宿の名を書いてあろう看板などはカビか何かで滲んでいて読めなかった。


 そのような宿を前にして、男は当然のように首を横にふり、リンを避けて進もうとする。


 が、これをリンは先回り、なおもまた立ちふさがる。


「お客さん、こっから先は宿なんてないですよ? すぐ街道出ちゃいますし、もう日もくれちゃいます。ここは無理しないで、ささ、うちの宿屋へささ」


「いや、先を急ぐのだ」


 そのあまりのしつこさに男は、折れたように口を開き、なお避けようとする。


 が、リンはまだ追いすがり、今度は幼女の前へと出て膝を曲げ、目線の高さを合わせる。


「あなたももう歩きくたびれちゃったでしょう? お腹もすいちゃったしね。ほら、ここにとまろーって、ね? ささ、お願いして、ね?」


 これに幼女、怯えたように男の影へ、そして問いかけるように見上げた。


「……銭がないのだ」


 根負けしたように男が吐くも、リンはひるまなかった。


「大丈夫ですって。お安くしときますから。内の宿はこの宿場町で一番格安なんです。それにご飯も食べ放題ですよ?」


「しかしだな」


 煮え切らない男を、いつの間にかリンは全力で引っ張っていた。


 男の太い右腕の、ちょうど肘の辺りを両手で持って、腰を落として重心倒し、まるで大根か株を引き抜くかのような全力の引っ張りは、客引きをはき違えた暴挙に見えた。


 まさしく力ずく、なりふり構わない全力、そこまでしても微動だにしない男は動かず、だけれどもリンもあきらめなかった。


「今、から、先、行ったって、途中で日が暮れちまいますよ。道には灯りもないし、それに夜になったら河童も出ますし」


「カッパ!」


 急な声、鈴を落としたような言葉は男の背後、幼女からであった。


 それに男が振り向くのと、その右袖が千切れるのとはほぼ同時であった。


 ビリり、縫い目の辺りが一気に弾け、シュルリと抜けて、掴んで引っ張っていたリンはもろとも、まるで跳ね飛ばされたかのように飛んでいった。


 その先には案内しようとしていたぼろの宿、背より当たると派手な音、折れて割れてずり落ちて、尻もちついたリンのすぐ横に立て続けに瓦が落ちて砕けて、宿屋が文字通り傾いたのであった。


 この突如の騒々しさにまばらな旅人も客引きも一斉に足を止めて振り向いた。


 いたたたと腰をさするリンに、驚いた表情の幼女、そして片袖千切られ目を丸くする大男がそこにいた。


「どしたどしたどしたどした!」


 そこへ更なる騒々しさ、どたどたと足音響かせ、ガバリと戸を開け飛び出してきたのは、吊り目にリンと揃いの紺の着物、そして前方へ長くとりすぎて角のようになっている髷を揺らす、若い男であった。


 名を八吉はちきちと言い、その後に続いて飛び出してきた男二人、米丸よねまる梶朗かじろう合わせて『三狂犬さんきょうけん』と呼ばれる、石沼町ではもめ事で有名な男であった。


 何せこの八吉、些細なことでも怒鳴りこみ、相手が何者であっても一歩も引かず、あろうことか宿の客との喧嘩も一度や二度では済まない問題児であった。


 そのような八吉が、この状況、未だに腰をさするリンと、それを見ている見るからに悪そうな、でかい侍を見比べれば、答えは一つであった。


「てめぇうちの可愛い妹分に何しやがってんだゴラァ! この『錆鼠一家』に手ぇ出すってこたぁわかってんだろうなぁ!」


 出刃包丁持って突っ込む八吉の目には腰のものも、そこに刀がないことも見えてはいなかった。


 ただ直情的にぶっ殺しに行っている八吉を、残り二人が冷静に羽交い絞めてなんとか押さえていた。


「アニキ落ちついてくれよ」


「流石にいきなり刃物は不味いっすよ」


「大丈夫だよ八っちゃん。あたしは大丈夫だから」


 そう言ってリンも立ち上がる。


「あたしが悪かったんだって、だから落ち着いて」


「悪かったってなんでぇ! 突き飛ばされてんじゃねぇか! だったらその腹ぶち割って!」


「だからそうじゃないんだよ。宿


 さらりと、事実ではないことを言われ、袖を破かれた男が目を丸くする。


「そう言う問題じゃねぇだろうが!」


 それとは別の理由で八吉は納得できていなかった。


「相手が何もんだろうが手を上げるやつぁ許さねぇ。相手が何もんであっても容赦しねぇ」


「アニキぃ、もうやめようよ。姉貴も大丈夫だって言ってるしよ」


「そうっすよ。それに久しぶりに表れた客っすよ? それを脅して逃がしちゃまずいっすよ」


 米丸と梶朗、狂犬と呼ぶには弱弱しい声で、リンと同じことを言いながら、止めに入る。


「本当に大丈夫だから。それに、ほら」


 リンが目くばせで見せたのは連れの幼女、一歩引きながら見上げるその眼差しが八吉を折った。


「……命拾いしたな客さんよぉ。客さんじゃなかったらぶっ殺してたところだが、客さんってことで大目に見てやらぁ。だがな! 今後なにかやらかしやがったら、もう客さんじゃないからな。そんときゃお前、覚えてろよ」


 狂犬に相応しいセリフ、完全なる脅しを残し、宿へと戻る八吉と、その後に続く残り二人、残されたリンは笑顔を取り戻していた。


「うちの門がお騒がせしてすみませんね。ささ、お袖が破けたままじゃいけませんよ。中に入れば針もありますし、ささ」


 ……男は息を呑みこみながら現状を見直す。


 出刃包丁の脅しはまだしも、図らずも突き飛ばす形になってしまった負い目に、周囲の眼差し、そして破けた袖、銭がないのは事実だが、野宿を避けたい気持ちもある。だがだからといってここなのか? いやだからこそ安いのか。


 想い、悩む男を導いたのは残る袖を引いて見上げる幼女の眼差しであった。


「……本当に銭はないのだぞ」


「ささ、そこはご心配なく。それでお客さん、ごあんなーい。それでお二人、お名前は?」


「おネギ、です」


「……鴨兵衛だ」


 幼女と片袖の男、そろって名乗って、しぶしぶと、ぼろい宿屋へ入っていった。

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