語ることはなかった。
ぱちりと焚火が爆ぜて、だけども牙太郎は動けなかった。八相の構えのまま、ただごくりと唾を飲む。そうせざるを得ないほど、目前の鴨兵衛が大きく見えた。
……これまで見てきた姿は、大きな体に似合わぬ弱腰の態度、女を見捨て、ジジィを助けに逃げ走る、みっともないものであった。しかし、こうして夜には、幼い幼女を連れてとはいえ、一団の前に立ち、手下どもを一掃して見せた。
でかい体は脅威である。加えて、立ち振る舞いから鍛えられているのも間違いはない。事実、手下が全て打ちのめされていた。
その事実を認めた上で、眼前に構える鴨兵衛の、正眼の構えは美しかった。
剣術に関しては我流に近い牙太郎の目にも、手練れの空気とそこへ至るためのたゆまぬ鍛錬が肌で感じ取れた。
それ故に、牙太郎は解せなかった。
これだけの手練れであれば、あの茶屋の前で一団を打ち負かす、まではいかなくとも追い払うことは容易にできたであろう。もっと言えば、茶屋の娘風情に顎で使われたり、うどんを頭からぶっかけられることもなく、腕相応に敬われていたことだろう。それをせず、恥に甘んじた理由、牙太郎の目前にあった。
鞘、黒くて長くて太くて立派ながら、所詮は鞘である。納めるとすれば相応に長く太く立派な得物、それこそ牙太郎の使う大太刀に迫る大物であろう。が、しかしそれは今はない。だからこそ下手に出ているのだ。
達人になればなるほど武器の在る無しに機敏となる。だからこそ余計な危険を冒さぬよう、下手に出て、厄介ごとをやり過ごそうとしていたのだ。ここへ来たのは最後の体面を保つためか、あるいは隙を見てこの大太刀なり何か得物を手に入れようとの算段だったかもしれない。そこまで考えてなお、牙太郎は無策に攻めなかった。
鞘だけでも打たれれば痛いし、剣術にはただ払って受け流す技もあると聞く、ならば迂闊に攻めるは悪手、今は時を使って隙を伺い、双子の爪太郎が参戦するのを待つのが定石、そう冷静に思案する牙太郎の耳に、深いな音が届いた。
げばぁ。
何かを吐き出す音、方向は焚火の向こう、牙太郎の方から、同時に漂う血の臭いに、悪手と知りつつ、牙太郎は視線を向けた。
見えたのは、仰向けに倒れ、腹に匕首飛び出た、愛する双子の姿であった。
その、影のように広がる血だまりに、牙太郎の頭は沸騰した。
これまでの目利き、思案は吹き飛び、その全ての優先度が爪太郎の救出に傾く。そのための思考は、それでも冷たく、素早かった。
まず目の前の鴨兵衛を殺す。それからどんな汚い手を使ったかわからないが幼女のおネギを潰す。それから腹を押さえ、布で巻き、近くの宿場まで連れて走る。金の問題は後からどうにでもなる。それが、牙太郎の思い描く全てであった。
その第一手、目前の鴨兵衛を殺すため、己から前に出た。
しかしそこには破れかぶれはない。前へ急ぎながらも足はすり足であり、鴨兵衛の一挙手一投足見逃さず、それでも最短で切りかかる構えで動いていた。
八相の構えは本来右上から左下へ、袈裟に霧下ろす構えである。それをこの長い大太刀で存分に行えば、如何に達人であろうとも真っ二つである。
後ろに引いたらなお踏み込んで返す刀で胴を狙い、受けに回れば、如何にご立派な鞘であっても木と木とを張り合わせた棒に過ぎず、ならば諸共両断するのはたやすい。冷酷な計算を思い浮かべ、牙太郎はその通りに行動した。
瞬く間に間合いは潰れ、即死の圏内、ためらわず踏み込むや思い描いたとおりに袈裟に切りかかる。これに、鴨兵衛も合わせて動いた。
重心、支える足腰はそのままに、腕を引き、腰を捻って迫る大太刀へ、鞘を合わせた。
それは弾く動きでなく、打ち合う動き、牙太郎が考える中で最も喜ばしい動きであった。
刹那、大太刀と鞘が直角に交差し、打ち合って、弾け飛んだのは、大太刀の方であった。
思い描いた計算よりもかけ離れた結果に驚愕する牙太郎、されど打ち合った瞬間の手応えにより、体は理解していた。
当たり響いた手応えは重く、当たり響いた音は硬く、それらを満たす材質は、金属に他ならなかった。
鴨兵衛の腰の物は鞘に非ず、その身は刀無しに非ず、むき身の鉄刀、鞘無しであった。
その事実、牙太郎が理解しきる前に鴨兵衛動く。交差し打ち勝った鉄刀を旋回させて上段へ、そこからまっすぐ面へ向かって打ち下ろした。
これに牙太郎、体が咄嗟に反応した。折れて短くなった大太刀を額の上で真横に構え、力を込めて受けに出た。
がぼぉ。
……牙太郎の、受けは成功していた。
振り下ろされた鉄刀は、構えられた大太刀に当たり防がれ止められて、その一部も牙太郎に触れること叶わなかった。
ただ、代わりに、受けた大太刀の峰が、まるで金槌で打たれた
最早思考もままならず、牙太郎は目と鼻と口と耳より出血しながら、ばたりと仰向けに倒れて動かなくなった。
こうして女衒の一団は、撃滅された。
己が作った地獄の中で、鴨兵衛は静かに鉄刀を腰へと収めた。
「お見事でした鴨兵衛様」
地獄の中で、血と肉を踏まぬよう、跳びよけながら、自分を兄上と呼ばずに横に立ったおネギに、鴨兵衛は悲し気な目線を落とした。
「そんな顔をなさらないでください。これはやらなければならないこと、もしもこの場で無血で済んでも、いずれは仕返しに戻って来るだろうと、鴨兵衛様にもお判りでしょう?」
血だまりを前にして、まるで見えていないかのように冷静に、冷酷に話すおネギに対して、鴨兵衛が何かを言おうとしたのを、絹を裂いたような悲鳴が打ち消した。
ガバリと二人、見た先は本堂、開けられた戸の間より這い出たお千の姿であった。
その目に映るは地獄、目にしたとたんに肌からは血の気は引いて、代わりにびっしょりと汗を拭き出させ、あの気丈な姿はどこぞのに吹き飛んで、まるで怯える子供の用に、がちがちと震えていた。
そして地獄の中でただ無傷の二人の姿を目にするや、まるでこと切れたかのように、ばったりを倒れて気を失った。
…………次にお千が目を覚ましたのは、村長の家の中であった。
時は朝を超えてもう昼の自分、起き上がるお千へ一斉に沸き上がる安堵の声、かわるがわるに体は大丈夫かと尋ねられ、それらに応えて、事情を知れたのは少したってからであった。
夜明け前、ありったけの武装で村を出た男たち、だが茶店の前を通ると、その中で寝ているお千を見つけて慌てて連れ戻ったのだ。
それから、有志を募って荒れ寺にも人をやったが、伝え聞く光景はお千が最後に見た地獄と変わりなかった。
ただ一つ、男らの懐が漁られていたようで、金目のものは奪われた後、きっとあれは物取り同士が共食いしたのだろうと、村の男たちは話していた。
お千が助かったのは、日頃の行いが良かったんだろうと深くは考えられなかった。
それからもう一つ、鴨兵衛とおネギの姿が消えていた。
弦五郎を助けるためとはいえ、お千を置いて逃げ帰ったことに引け目を感じ、いたたまれなかったのだろう。だからあぁして黙って殴られてたのだ。悪いことをした。
口々に二人を語る村の人々に、お千は最後に見た光景を語ることはなかった。
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