一度も振り返らなかった。

 戦乱の終わった太平の世、統一幕府が全国に出した布告の中に『人身の売買禁止』があった。


 いかなる値段、理由をもってしても人の身を売り買いすることを禁止する、広く知られた布告ながら、守られているとは言い難かった。


 これは売り買いではなく、給金の前払いであり、それを終わるまで生活の面倒を一手に見る、そのような言葉遊びで各地の遊郭は女子供を囲っていた。


 ただ、そこには根絶やしにできない事情もあった。


 北の貧村や飢饉が起これば飢えて死ぬ。そうなるぐらいならば娘を売って糧とし、同時に口減らしにもする。娘も娘で飢えて死ぬよりはマシ、と最後の手段として機能していた。


 そうした売り手と買い手を結ぶ仲介業者が女衒であった。


 人の弱みに付け込み買いたたき、挙句に仲介料と称して寄生して、末永く金を毟っていく、人の風上にも置けないゴミどもだとお千は考えていた。


 ただそれも、遠い地の話、のはずであった。


 この辺りは裕福とは言えないまでも食うに困らない程度に肥沃であり、米は年貢で持っていかれても、それ以外の食い物は、それこそ茶屋で売れるほど採れた。


 ましてや今は夏、人手のいる田植えが終わった後とはいえ、忙しいことに変わりはないし、ただ食うだけなら山に入れば何かが採れる。少なくとも女子供を売るほど追い詰められる季節ではなかった。


 あるとすれば、積み重なった借金の形か、賭博に狂って首が回らなくなったか、ともかくこの辺りの村々に縁ある仕事ではないはずだった。


 それでもこんなところにいる理由、それを察してお千は背筋に冷たいものが流れた。


 女衒は、人さらいも行った。


 経緯はどうであれ、一度遊郭に女が入れば金を返し終わるまで出ることはできない。例えそれが攫われ、売られたとしても、誰も信じず、誰も助けず、返すまでは帰れないのだ。


 身の危険を今更感じ、そっと前掛けの端を握るお千、だが双子は不意に、別々に目線を外した。


 片方は引いていた男の手から匕首を受け取り、もう片方はまだ立ててなかった弦五郎へ、その襟首を掴むや猫を捕らえたかのように引きずり立てた。


「何を」


 お千が言い切る前に、双子は向かい合わせに立って、手と手を合わせるように、匕首で弦五郎の腹を刺した。


 じわり、刺された前掛け越しに傷から漏れ出た血が滲み出た。


「「まずは一人」」


 重ねて行って、双子の片割れは、刺されて震える弦五郎を沢へと放り投げた。


 ぐるりと回って落ちる老体、下には流れる水に隠れきれない岩と石、激突する前に受け止めたのは鴨兵衛だった。


「貴様ら!」


「お止め!」


 鴨兵衛の一喝をお千の一喝が打ち消した。


 その手は震え、滝のように汗が噴き出ている。だがジッと双子の右目と左目を見据えていた。


 この二人は、危険だ。もしもこの場で逆らえば、鴨兵衛やおネギだけでなく、村にまで際限なく災いをもたらすだろう。ここは黙って、従うのが正しい。そう計算するお千だったが、そう計算できない男もいた。


 鴨兵衛、弦五郎を抱えたままざばりと沢から出てきた。


 猫背を直して背筋をただし、その目はらしくなく険しかった。


 ……あの時、真っ先に飛び出そうとしたのは鴨兵衛だった。あのままうどんをぶっかけなければ飛び掛かっていただろう。そして返り討ちに合う。それを避けたいお千だった。


「鴨兵衛や、頼むよ」


 静かに、優しく、これまでを知っていれば不気味と思えるようなお千の声に、鴨兵衛の足が止まった。


「あたしのことは大丈夫だから、爺様をお願い。村に連れ戻って、村長に診せて。お願いだから……助けて」


 まるで菩薩のような微笑みに、鴨兵衛は一度俯く。


 だけどもすぐに顔を上げ、そして村へと走っていった。


「置いて逃げるぐらいならはなから出てくんじゃねぇよこの臆病もんが!」


 背に浴びせられる一団の罵声に、鴨兵衛は一度も振り返らなかった。


 …………村の中を弦五郎を抱えて走る鴨兵衛の姿はすぐに村中に知れ渡った。


 飛び込んできた鴨兵衛にクマかと驚いた村長だったが、回らぬ口で事情を話す鴨兵衛に、すぐに事情を察するや直ちに治療が始まった。


 村長たちが弦五郎の腹を縫う間、邪魔だと外に追い出された鴨兵衛は、何事かと駆け付けた村の男らに順に片言ながら事情を話し、その度に殴られた。


 何故お千を行かせてしまった、何故戦わなかったのか、鴨兵衛のふがいなさに怒りを募らせ、責めて立てるも、それを黙って受け入れる鴨兵衛の様に、向ける怒りは虚しいものであった。


 そうして日が暮れもうすぐ夜になろうという時、顔中あざだらけとなった鴨兵衛を囲って村中の男らが村長の家の前に集まっていた。


 そこへ村長飛び出して、手術が上手く行ったことを伝えるとやっと険しい顔が少しはほぐれた。


 しかし、この場にお千がいないことには変わりなかった。


「そいつらは、野毛兄弟の爪太郎と牙太郎だ。間違いねぇ」


 誰ともなく作られた焚火の前で、村の男の一人がぼそりと呟いた。


「隣村のやつから聞いた話さ。派手な格好で街道回って、路上強盗ひったくり、無銭飲食に、好き勝手やってる。それで、少しでも歯向かえば、迷わず切り付ける。止めようにも腕が立つもんだから、賞金稼ぎも同心も軒並み返り討ち、んだから未だに傍若無人だと、南の方で暴れてるって話だったが、まさかこんなとこまでくるとは」


 双子の正体が割れて、だけどもなすすべの見つからぬ村の男ら、しばらく黙って焚火を見つめる後で、次に口を開いたのは鴨兵衛だった。


「おネギ」


「ここに」


 すぐに返ってきた返事に、男らはざわつく。


 そして見た先、声の元、男らと焚火の間に、その幼女の姿はあった。


 ただ静かに、初めからそこにいたような姿、だけども声がするまで村の男ら誰一人としてその存在に気が付けなかった。


 異様なのはそれだけではなかった。


 彼らが知るおネギは、兄上とは異なり、しっかりした、あの可愛らしい少女、短い間だったけれどもそれなりに会話を重ね、見知ったはずの姿、だけども目の前の幼女は、思い浮かべる過去の姿の、どれにも当てはまらなかった。


 どこでいつ着替えたのか、着物は闇に紛れる藍色で、静かな微笑は昼間と同じに見えて、だけどもその奥には真冬を思わせる冷たさがあった。


 何よりも、目にも見えず、言葉にもできない何かが、これまでのおネギと決定的に違っていた。


 それが何なのかわからない男らだったが、それでもこれが、おネギの本性だと感じてとれた。


 そんなおネギが静かに語る。


「お千さんは、沢の向こう、山一つ越えたところの荒れ寺にいます。後ろ手に縛られてはいますが、今のところ無事なようです。見張りの男は元いたのと合わせて十人、みな武装してます。盗み聞きした限りですと、出発は日の出ごろのようです」


 簡潔に、冷たく、まるで念仏のようで、だけども艶めかしさもあるおネギの声、だけども男らの耳に入ったのは情報だけだった。


「おい朝には行っちまうってのか」


「そっから先はどこだ? この近くの花街ってぇと」


「いや待て! あそこなら俺知ってる! こっからならすぐに行けるぞ!」


「だから何だ! まさか助けに行こうってんのか!」


「そうだ!」


 最後に叫んだ男に、視線が集まる。


「攫われたのは、俺たちのお千だ。だったら俺たちの手で取り戻すのが筋ってもんだろ」


「バカ言えそれで取り返したところで、後どうすんだ。そんなやつら絶対に復讐に来るぞ」


「それこそだからなんだ。俺らが何かする前に弦五郎の爺さんは刺されたぞ。やらなくてもやられるんなら俺は先にやったるぞ」


「俺もだ! 俺もお千を取り戻すんだ!」


「あぁもうやってやるよ! だけんども準備はいるぞ! 武器だ! 何でもいいから持ってこい!」


「武器って、なんだ?」


「あんだろ鍬とか鉈とか、なきゃ包丁でもいい。とにかく武器持って集合だ」


「やんなら日の出前だ。あの時分が一番眠い」


「鍋もかぶれ。兜替わりなりゃ少しは生き残れる。やれることは全部やんぞ!」


 男らがどたばたと準備に走り回る中、鴨兵衛とおネギ、二人の姿が消えたことに気が付けたものは誰一人としていなかった。

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