引退


 結局、中村君の代は区大会の三回戦で敗北した。例年に比べれば十分健闘したと言える結果だった。三年生は皆引退し、本格的な受験勉強に移った。


 9月、夏休みを終えてから毎年恒例の「追い出し試合」が行われることとなった。「追い出し試合」は部を引退した三年生と新体制の一・二年生が試合をするという余興だった。夏期講習やら特別補講やらで溜まった三年生のストレスを解消するための行事である一方、一・二年生が成長した姿を見せることで恩返しをする行事でもあった。


 ほとんどお遊びと言った雰囲気の試合で、特に三年生は、普段はつかないような守備位置についたり、志願制でピッチャーを順番でやったりして、久々の野球を楽しむのが通例だ。


「あー。久しぶりの野球、ちょっと楽しみだわ~」

「だよな。あんなに練習嫌だったのに、いざ引退するとやりたくなるよなー」

「スタメンどうする? 俺らで決めていいんだよな?」

「お、じゃあ俺ピッチャーやりたい!」

「えー。ストライク入るのか? おとなしく本職の外野やっとけよ」

「いいじゃん。どうせお遊びなんだし。何か変化球覚えようかな」

「いや、勉強しろよ~」


 引退した三年生たちが和気あいあいと話している中、中村君は会話に参加できずにいた。中村君も試合に出たいと思っていたが、チームメイトの輪の中に割って入るのが苦手なのは最後まで変わらなかった。

 

 そして、追い出し試合の当日がやってきた。河川敷の球場をとり、顧問の先生が審判役をした。中村君はやはりベンチだった。ただ、ベンチに座ること自体が初めてだったので、中村君は少し興奮していた。


 試合開始は正午。一・二年生が先攻、三年生が後攻、五回で終了の短縮試合だ。


 夏休みの間、勉強ばかりしてきた三年生たちの動きは固く、また素人ピッチャーに慣れないポジションについたせいで、試合は一・二年生の圧倒的リードで進んだ。


「いやーもうちょっとできるかと思ったんだがなー」

「へいへい、ピッチャーノーコン!」

「せんぱーい、まじめにやってくださーい!」


 笑い声と煽りが飛び交う。締まりのない試合内容だったが、それも例年通りだった。出ている選手も、応援している他の部員達もみんな楽しそうだった。試合はそんなぬるまったい雰囲気のまま最終回を迎えようとしていた。


「あー、やっとこさ最終回かー。8点差……これは逆転は無理だな」

「あれ、そう言えば中村は?」

「あ、やべ、流石に出してやんなきゃかわいそうだよな……ていかアイツどこにいる?」

「あ、向こうでバット振ってるわ。呼んでくる」


 チームメイトの一人が中村君を呼びに行く。中村君は試合場から少し離れたところでバットを振っていた。黙々と、試合も見ずに振り続けていた。


「中村! もう最終回だ。代打だってさ!」

「……うん。ありがとう」

「大分点差ついてっから、あんま気負わずにやって来いよ。久々の野球だろうからケガしないように……ん?」


 チームメイトは中村君のスイングを見て、違和感を覚えた。明らかに引退する前よりも無駄がなくなっている。下半身と上半身がしっかり連動していて、バットに力が伝わっている。もちろん上手、とは言わないが、いっぱしの野球選手と言えるだけの、つまりはヒットが期待できるだけのスイングになっていた。


「おい……お前、まさか引退してからもバット振ってたのか?」

「うん。勉強の合間とか、夜とか……」

「な、何のために? 高校で野球やるのか?」

「……やるかどうかはまだ決めてない……かな」

「じゃ、じゃあなんで?! 試合もないのに、引退もしたのに、なんで練習なんて……」

「……試合なら今やってるじゃない」

「は? まさか『追い出し試合』か? ウソだろ? こんなお遊びの試合のために?」

「……やっと出れそうな試合だったから」


 そう言うと、中村君は走って試合場に戻っていった。呼びに来たチームメイトは茫然としていた。彼のつぶやいた「わけわかんねえ……」という声は、河川敷に吹いた風によってかき消された。


「中村! どこ行ってたんだよ。代打だ!」

「ツーアウトランナーなしだからよ。気楽にいけよ」

「おお、中村さん出てきた! 秘密兵器かー?」


 同期の励ましの言葉や、後輩の煽りや笑い声が響く。でも中村君には聞こえていなかった。


 静かに、ただ静かに、待ちに待った打席に入る。ヘルメットをかぶり、審判に一礼した。バッターボックスを示す白い線はもう所々消えかけていて、足場の白い土はいろんなバッターが使ったためにデコボコしていた。少しスパイクで足場を整えて、ピッチャーの方を向く。


 その日は抜けるような青空だった。河川敷に燦燦と陽の光がそそぎ、外野の芝の緑色と内野の白い土のコントラストが美しかった。


 中村君はピッチャーを見た。次期エースの二年生ピッチャーは、強い日差しの中で汗を光らせながらボールの握りを確認している。中村君を打ちとれば試合が終わる。その安堵感からか、表情はやや緩んでいるように見えた。


 中村君がバットを構えると、ピッチャーが投球モーションに入った。一球目は外角一杯。盛大に空ぶった。勢いあまって尻もちをついた。両ベンチから笑いが起こる。「力まなくていいぞー」「力抜いてけー」「ギャグセンたけー」などと声がかかる。


 二球目も大体同じコース。バットにかすってボールが真後ろに飛んだ。「おー。当たった当たったー」「えらいぞー」などと馬鹿にしたような声が上がる。あと一球コールが両軍から上がった。誰もが次のボールでゲームが終わると確信していた。


 ただ、スイングを間近で見ていたキャッチャーだけは中村君のスイングの鋭さに驚いていた。


「(これ、甘く入るといかれるかも……一球変化球外しとくか……)」


 引退試合としては少々大人げないような気がしたが、これ以上試合が長引くのも面倒くさい。キャッチャーは変化球を要求した。ピッチャーもキャッチャーの意図をくみ取ってサインに頷いた。


 そして、三球目。


「(あ、やべっ)」


 ピッチャーが投じたスライダーは指のかかりが甘く、すっぽ抜けた。変化をせずにまっすぐボールは飛んできた。コースは先ほどよりやや甘め、真ん中寄りに入ってきた。



 中村君はその失投を逃さなかった。逃すはずもなかった。


 そのボールは彼が三年間待ち続けていたボールなのだから。



 バキンッ



 小気味いい音を残して、打球はピッチャーの頭を越え、真っ白い閃光がセンター方向へ抜けていった。打った瞬間、中村君は走り出した。


 打球が飛んでくるなんて夢にも思っていなかったセンターは、打球に全く反応できず、ボールは転々とセンターの横を抜けていった。


「セ、センター!!」


 キャッチャーが叫んだと同時にセンターは我に返り、急いでボールを追った。


 その時中村君は二塁に到達し、三塁へと向かっていた。決して速くはない足で、それでも力強くベースを蹴る中村君は、入部当初の誰と走っても周回遅れする姿とはまるで別人だった。


 サードコーチャーはあまりのことに打球を見失っており、茫然とコーチャーボックスで立ち尽くすだけだった。両軍のベンチも同じような状況だった。プレイヤーの声と自分のスパイクが土を蹴る音だけが響く。中村君はサードベースも蹴った。


「バックホーム!!!」


 中村君が三塁を蹴った時、既にセンターはボールを捕球しており、ショートへと必死の返球をしていた。キャッチャーの叫び声を聞き、ショートがホームへと返球する。


 タイミングはギリギリ、中村君は頭からホームへと突っ込んだ……。

 一瞬、球場の誰も息を止めて審判のコールを待つ。


 そして……。




 中村君の最初で最後の打席は終わった。


 彼の最期の打席を美談にするのは簡単だ。「彼のたゆまぬ努力は、この一打席のためだけにあった」などと締めくくれば、めでたくハッピーエンドだ。


 しかし、そう結びつけるにはあまりにも彼は犠牲を払いすぎた。同期に虐げられ、後輩に馬鹿にされ、先生に部を辞めるように言われ、勉強時間や将来への準備の時間を費やしてまで手に入れたのが、お遊びみたいな試合のたった一回の会心の当たりなんて、あまりにも割に合わない。もっと彼にはすべきことがあったようにも思う。


 だが一方で、我々は彼の最後の一打席についても何一つ知らない。バッターボックスから見える青空や、一球目でバットが空を切った感覚、二球目がバットにかすった感覚、三球目でボールをバットで完璧に捉えたときに手のひらに来る痺れ、スパイクの歯が白い土を踏む感触、生まれて初めてのヘッドスライディング、ゴム製のベースの熱、コールを待つ痛いほどの静寂、審判の声と思わず作ったガッツポーズ、自分の声とは思えないくらい大きな雄叫び……


 それら一つ一つの感覚がどんなもので、中村君にとってどんな価値があったか。


 それは中村君だけが知っていることで、死ぬまで誰にも奪われない彼だけのものだった。


 彼の同期も、後輩も、顧問の先生も、我々でさえも、永遠に知ることはできないものだった。



 だから結局、どうして中村君が野球部を辞めなかったのか、誰にもにも分からない。


 我々はせいぜい、中村君の過ごした日々を、「青春」などと名付けて慈しむのが精一杯なのだろう。

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中村君の「青春」 1103教室最後尾左端 @indo-1103

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