三年目


「中村……俺の言いたいこと分かるよな」

「……」


 職員室では野球部顧問の先生が中村君を呼び出していた。顧問の先生は安っぽい背もたれに思い切り体重をあずけ、不愉快そうに貧乏ゆすりをしていた。机の上には中村君の成績表らしきものが置いてあった。


 先生はわざとらしくため息をついた。


「俺だってな、意地悪で言ってるわけじゃない。お前が熱心に野球に打ち込んでるのは分かる。でもお前は打ち込みすぎだ。もっと時間を有効に使え」

「……」

「いいかげん、現実を見ろ。このままの成績じゃどこの高校にも受からないぞ。いつまで部活やってるつもりなんだ。早く部活やめて勉強に打ち込め」

「……でも夏の大会が……」


 中村君にとってこの夏の大会は引退試合だった。中村君の身体は入部したときとは明らかに違っていた。相変わらず太ってはいたが、デブ、というよりガタイがいい、と形容できるくらいには引き締まった身体をしていた。


 野球の実力も、ほんの少しずつ向上していった。バッティング練習では少しずつボールにバットが当たるようになり、打球も鋭くなっていった。キャッチボールもとても巧者とは言えないが、塁間はまっすぐボールが投げられるようになっていた。守備もまだまだお粗末だったが、もともとの姿を考えれば随分上達していた。


 もしかすると、背番号をもらえるかもしれない。最後の大会にレギュラーではなくとも、ベンチには入れるかもしれない。十分にその可能性はあった。だから、中村君は今部を辞めるわけにはいかなかった。


 くいさがる中村君の様子を見て、顧問の先生はもう一度大きなため息をついた。


「……顧問の俺が言えることじゃないかもしれないがな、中学の部活なんて大した意味はないんだ。別に試合で勝ったからってプロ野球選手になれるわけじゃない。それにお前は……申し訳ないが推薦で野球の強い高校になんて入れるレベルじゃない。分かるだろ?」

「それは……」

「確かにお前は成長したけど、それは野球のど素人が、ちょっとヘタクソな選手になっただけだ。だけどな、この中学を卒業したらそれには何の意味もない。一部の本職の連中を除けば、野球が上手くなっても何の役にもたちゃしないんだよ」

「……」

「俺はお前のためを思って言ってるんだ。四月の終わりの今から一生懸命勉強すれば、ちゃんと立派な高校に行ける。その方がお前の将来にとってはプラスになる。俺の言ってること、分かるよな?」

「で、でも、大会が……」


 あくまでも大会にこだわろうとする中村君に、顧問の先生はひどく鬱陶しそうな顔を向け、ばっさりと言い放った。


「……じゃあここではっきり言っとくわ。今年のベンチ入りメンバーにお前の名前はない」

「え……」

「これは別にお前を辞めさせたいから、とかそういうわけじゃない。お前よりも野球がうまい奴で固めたら20人のベンチ入りの枠が埋まった。それだけだ」


 中村君は口を半開きにしたまま固まってしまった。分かっていたことではあったが、心のどこかでしていた期待を粉々にされ、中村君はしばらく考えがまとまらなかった。


「な、これで踏ん切りがついただろ。退部届は渡しとくから、明日までに書いてこい。それから、特別補修を学校でやるからそれにも申し込め。わかったか?」


 顧問の先生の言葉は、中村君の耳にほとんど入ってこなかった。ふらつくような足取りで中村君は退部届と補修の申込書をもって職員室を後にした。


「……ちょっとさっきのはひどくないですか?」


 一部始終を見ていた女性の教師が顧問の先生に話しかけた。


「何がです?」

「中村君ですよ。何もあんな言い方で突っぱねなくても……部活ぐらい最後までやらせてあげたらいいじゃないですか」


 女性の教師はまだ若く、三十手前ほどだった。顧問の先生は彼女の言葉を聞いて、今までで一番深く、わざとらしいため息をついた。そして聞き分けの悪い生徒に物を教えるようにゆっくりと話し始めた。


「……じゃあ先生は責任とれるんですか?」

「なんのです?」

「中村の人生の、ですよ」


 そう言って顧問の先生は中村君の成績表を見せつけた。そこにはなかなかに低空飛行の数字が並んでいる。


「こんな成績の奴が、夏の終わりまで野球やってたら絶対にろくな高校いけませんよ。いい高校に行けないってことは、いい大学に行けないってことです。いい大学に行けないなら、いい就職先にはつけない。大げさでなく、今彼は人生の岐路に立ってるんですよ」

「それはそうかもしれませんが……」

「特別な才能があるわけでもない、むしろ人より出来が悪い人間ほど、学歴っていうのは武器になるんです。試験に受かっちまえばそれだけで、その後一生使える武器になる。あいつの生涯年収も、福利厚生も全部グレードアップする。どうしようもない大学に行っちまったら、アイツみたいなどんくさい奴は奈落のどん底でしょう」

「……ちょっと極端だと思いますけど」

「極端かもしれないけど、可能性は有るでしょう? 中村の将来のことを考えたら、『好きなだけ野球しろ』なんていう方が無責任ってもんですよ」


 女性の教師は黙り込んでしまった。顧問の先生は椅子の背もたれに体重を預けたり戻したりして、キコキコ音を鳴らしながら続けた。


「百歩譲ってね、これが野球部のレギュラーならわかりますよ? でもあいつはベンチ入りもできない半分素人みたいなやつだ。そんな奴が野球を続けるのを止めないなんてそっちの方がどうかしてると思いませんか? アイツがどうしてこれほどまでに野球部にこだわるのか、私には理解できませんね。もっと効率のいい生き方があるでしょうに」

「……確かにそうかもしれませんね」


 女性教師は顧問の先生の言葉に言いくるめられてしまった。というより、顧問の先生の方が、野球を続けようしていた中村君よりも筋が通っていた。女性教師は自分の席に戻り、顧問の先生は別の部員の成績表を吟味し始めた。


 彼女を論破したことで、顧問の先生は自分の考えの正しさにより一層の自信を持つ事ができた。頭の片隅では、中村君の人生に適切な舵取りをしてやれたことに、教育者としての喜びさえ覚えていた。



 しかし翌日。いつも通りユニフォームを着てグラウンドに現れた中村君を見て、顧問の先生は驚いた。あれだけはっきりと言ったのに、まだ事の重大さがこいつには伝わっていなかったのかと、中村君のどんくささに腹を立てた。


「中村! 昨日の話、聞いてなかったのか?!」

「……先生。これ、色々考えたんですけど、やっぱりお返しします」


 そう言って中村君は顧問の先生に丁寧に折りたたまれた退部届を差し出した。


「おまえ……!」

「……勉強をしてなかったのは謝ります。補修はちゃんと申し込みました」

「そういう事じゃない!!」


 顧問の先生は大きな声を出した。グラウンドにいた他の部員達は驚いて先生と中村君の方を見た。


「昨日、言っただろ? もうお前、試合出れないんだよ。ベンチにも入れないんだよ。野球なんて上手くなっても、もう何の意味もないんだよ!」


 教育者としてあるまじきことを言っていることは、先生だって分かっていた。しかし、この目の前の理解不能な生き物に対して、一種の恐怖を感じ、必死の抵抗を試みるのに精一杯だった。


「勉強しろよ! そっちの方が実のあることだってなんでわかんないんだよ! 馬鹿なのか? 言葉の通じない馬鹿なのか? ちょっと考えたら分かるだろ? お前が部活をやることはお前の人生を悪い方に進めるかもしれないんだぞ? 逆に、今の時期ちゃんと勉強すれば、お前の人生はいい方に進むんだよ! それでもやるっていうのか? そんなもんはな、自己満足って言うんだよ、頑張ってる自分に酔ってるだけなんだよ! 先生に逆らってかっこいい自分に酔ってるだけだ! 言っとくぞ。その気持ちいのは一瞬だけだ。お前はその選択を、一生、一生後悔することになるかもしれないんだぞ!! 」


 大きな声を上げる先生に対して、中村君はぎゅっと拳を握った。拳は入部したときよりもはるかに分厚く、たくましくなっていた。そして、ゆっくり、はっきりと言った。



「……それでも、僕は最後までやりたいです」



 中村君の言葉が先生には理解できなかった。よろよろとベンチに向かい椅子に座って、うわごとのようにつぶやき続けた。


「わけが分からない……そんな自己満足で人生を棒に振るっていうのか? 中学生っていうのはそんなに馬鹿な生き物なのか? 俺の方が間違ってるっていうのか? 分からん……分からん……」


 それから、中村君は今まで通り、部活に参加し、練習後には自主的に素振りを毎日続けた。まだまだ粗さはあったが、最初の頃とは別人のような力づよいスイングができるようになっていた。


 しかし、顧問の先生の宣言通り、中村君は六月に行われた最後の大会のベンチに入ることができなかった。中村君の代の引退試合を、中村君はバックネットの外側で、一、二年生たちと一緒に応援した。


 どうして中村君が野球部を辞めなかったのか、顧問の先生にも分からなかった。

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