Ⅰ-3

 ナズカが第四北都の絵画館に就職できたのは奇跡に近かった。彼が、私を含む周囲の学生を圧倒するのはもちろん、教員も舌を巻く知識と情熱の持ち主であったのは確かだ。私も彼が行くのはあの館のほかないと確信しつつ、その狭き門が彼を迎えるかという問いに軽々しくうなずくことはできなかった。彼に勝るとも劣らない逸材が国じゅう――もしかすると国の外からも集まるのだから。しかし彼は栄誉ある座を勝ち得たのだった。彼から報告を受けた私は、彼があの絵を愛しているだけではない、あの絵もまた彼を愛しているのかもしれないと感じざるを得なかった。


 あの絵――《殉教者に扮するウンゼ・イレツィス》は特段有名なわけでなく、絵画館の数ある収蔵品のうちの一つに過ぎない。作者は当時随一の肖像画家であり、モデルの役者ウンゼも相応の人気を誇っていたのだろうが、今となってはどちらも名を知られていない。ウンゼが演じる若者は、異教を信じたために皇帝に捕らえられる。処刑間際の彼が川のほとりで祈りのために跪いていると、雲間から月が現れ、彼と、彼を吞み込もうとする川面を鮮やかに照らす。空を仰ぐ役者の顔はなめらかな筆致で描き込まれ、月光にきらめく紺青色プルシアン・ブルーの瞳や、小さな驚きの声を漏らすように開いた唇は、確かに見事といえる。人物以外も、川のさざ波から遠景の森までが丁寧に表されていながら、主役への視線を決して邪魔することがない。


 ナズカは《ウンゼ》を愛している。彼が饒舌に語ったことはない――私にも、おそらく他の者にも。だが私は、彼のあの絵に対する愛情を確信している。私と彼は学生の時分、小旅行で第四北都を訪れた。一番の目当ては絵画館だった。彼が旅行以前から《ウンゼ》に惹かれていたのかは分からない。役者の肖像を前にした彼の横顔は、敬虔で、貪欲で、病を得ているかのように美しかったのだ。今まで他のどの作品にも、また誰にも、彼があの表情をもって相対したことは一度としてない。


 ナズカが働きはじめて三年余が経ち、第四北都で傾禍が起きた。土地に満ちる魔力の均衡が崩れる――傾くことで起きるとされる災いだ。私は休暇をもぎ取り、発生から一週間が経った今日、列車に飛び乗った。周囲は私が支援に向かうのだと合点して、口々に褒めたり身を案じたりした。確かに私は――彼の足元にも及ばず現場での経験もないが――美術品の扱いを心得ている。わずかであれば魔法も扱える。必要とあれば微々たるものながら力添えをするのだと自分に言い聞かせていた。






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