友愛

和泉ほずみ/Waizumi Hozumi

第1話

 「ねえ……あの」


 それは普段の僕らしくない曖昧な発音で、彼女は僕の、唐突な発言権の主張に戸惑いを見せる。醸し出す雰囲気に、兆し等はきっと無かっただろうから。


 「ん、なあに?」


 彼女の表情は確かに、僕の態度への反応として相応しく訝しげであったが、柔和な微笑を崩すことはあくまでしなかった。

 僕はかえって、お茶の濁りに拍車をかけてしまう。それこそ、普段の僕とは打って変わって、些か臆病であった。


 僕は目を逸らした。彼女が優しく微笑む姿なら、彼女がそうなのであれば、数瞬であろうとより長く視界に入れておくべきだと心得ているはずなのに。


 「……ハグしたい……って」


 僕は告げた。俯きがちになりながらもしっかりと言った。込み上げてきた積年の想いを……などと言ってしまえば「んな大袈裟な」と彼女に笑われてしまうかもしれない。そうは言っても、僕にとってそれはそれは、大変な本懐だったのである。


 「いいよ」


 迷いなど一切ないように感じた。僕はそう思った。それは、彼女が諸手を大きく広げ、僕を受容する体勢で構えていたのをしかと確認したからだ。

 抱きつきたかった。強く抱きたかった。しかし僕は、掌で顔を覆い、その場で表を伏せ、悶えてしまった。


 「どうしたの?」


 優しい声色だった。彼女は何故こんなにも大人びているのか。あどけなさ等を忘れることなく、子供という肩書きを背負ったまま、彼女は日々前進し、日々大人へと変革していく。


 温もりを帯びた両手と共に、心さえも開いて見せてくれた彼女を、これ以上待たせてしまうのは忍びない。そう思うや否や、僕は、


 彼女を抱き締めた。正しいハグの仕方など知る筈もなく、ただ彼女に触れたいという衝動に全てを委ねた。委ねてしまっても問題は無いと、僕の理性が不承不承にそう判断を下した。


 彼女を抱いた時、彼女もまた僕を抱いているのだ、と、わざと言葉にして綴るのも些かナンセンスな気もするような感想が浮かんだ。彼女はきっと……。


 さて、先に嗚咽を漏らしてしまったのは、果たしてどちらの方だったか。

 きっと僕だ、僕が先手を打った。

 感極まり、それを肉声として発露することを厭わずに、今にも涙が溢れ出しそうな僕がそこにいた。僕のその感慨等は、今身体同士を繋ぎ止めている彼女に同調されたのだろう。或いは、重大なトリガーとなったか。


 彼女は泣いていた。あからさまに、涙を流していた。ベッドの上で、2人は横になりながら身体を密着させていた。そして、彼女はひっきりなしに泣いていた。


 彼女が何か言っている。嗚咽混じりに、自身の感情の共有を図っている。

 幼少期、僕の母はどうやって泣き止まない我が子をあやしていたっけ、等といったことをにわかに想起し、彼女の背中を紳士的にさすって、


 「なあに、もう一度、言ってごらん」


と。


 後で思い返して小っ恥ずかしくなるような、気取った口調であったかもしれない。否、そんな事をやいのやいのと咎める無粋な人間はこの部屋にはいない。


 「私、私さ、少しばかり疲れちゃったんだ。人間という生き物に、失望してばかりで……」


 僕の耳元で彼女はそうやって発声する。彼女の嗚咽混じりの告白も、吐息も、鼻をすする音でさえも間近で、勿論、胸の鼓動だって顕在的に堪能できるわけで、得も言われぬロマンチシズム的情動を感じずにはいられなかった。


 「でも、ハルくんは、ハルくんは私に下卑た視線なんか向けないで、私の本当の思うところに真摯に向き合ってくれるから、だから……」


 彼女の華奢な肢体はまるで、脈打つ血流のように、咽ぶ度に分り易く震えた。それに応対するていで僕は抱き締める力量を増幅させる。すると彼女は僕の期待通りに身体を委ねてくる。要するに、互いにより味わい深い抱擁を求めたのだ。


 僕は今この瞬間の出来事というのを、予め知っていたかのような、少しばかり不思議な感覚を覚えた。とは言っても、今より彼女に与えんとしている言葉というのは、前もって用意しておいたものという訳でもない。


 僕は言った。


 「リオ。リオは充分頑張れてるよ。リオはちゃんと上手くやれてる。僕は、そんなリオが愛おしい。本当に、本当にお疲れ様」


 彼女に労いの言葉を贈る僕のその声は、案の定些かの震えを帯びていて、明瞭とは言い難い聞き取り辛い発音だったかもしれない。ただ、あからさまに泣くことはしなかった。あくまで慰める立場を一貫したかったのだろう。自身の事ながら、はっきりと理解していないのだが、きっと僕は一丁前に強がったのだ。


 堰を切ったように、彼女はより一層おいおいと泣き出した。

 それは慟哭と呼ぶに相応しい、実にエモーショナルな光景だったであろうと、今になってそう思う。


 「うぅ……ハルくん。あぃ、ありがと、う……」


 彼女の背中を丁寧に、パタンパタンとノックする。その行為は彼女の感涙を助長し、体内の毒素の解毒を促した。「これ以上無理して強がらなくて良いんだよ」と、暗に諭した。


 「泣かないって決めてたのに。さっきハルくんと駅前で会った時、その時はちゃんと、抑えられていたのに。……ごめんね、やっぱり私、なんだか涙が堪えられなくて。ああ、自分の泣き顔なんて、見られたくない……」


 天真爛漫な優等生。弱いところを滅多に他人に見せない。そんな彼女が流した涙。ようやっと口から零した本音。今彼女は僕と対話をしているんだと、改めて明確に意識する。


「泣いていい。泣いてはいけない理由なんてない。泣いているところ、見られたくないなら見ないからさ。でも、そうだな……。僕はリオの、笑っている時の顔が一番好きだ」


 不適切な感想とは思いつつも、涙ぐんで喘ぐ彼女の声というのは何故か耳に心地好くて、それを耳に馴染ませながら、おもむろに綻び出す彼女の微笑というのを想起した。

 彼女の笑う顔が好きだ。天使の微笑みと喩えるに相応しい。今まで彼女が僕に与えてきた好影響は計り知れないものであった。


 特に用意していた訳でもない即興の“贈る言葉”。

 そして、次に紡がれた僕の言葉というのは、生憎涙ながらで情けない、それでいて確固たる愛情に基づいた嘘偽りない本懐であった。


 「僕は君に、リオに幾度となく、この命を救われたんだよ。そんなリオに、酷いことなんて出来やしない。僕はリオの嫌がることはしない、出来ない。そして僕は、これからもずっとリオの味方でい続ける」


 「リオに出会えて本当に良かった。リオ、生まれてきてくれてありがとう。今まで辛かったよね、苦しかったよね。よく、頑張ったね。君のことが本当に愛おしいよ。……大好きだよ」


 僕は彼女のことが好きだ。大好きだ。心の底から愛していて、彼女の幸せを切に願っていて……。


 彼女に性的な魅力の一切を感じないと言ったら嘘になる。自分の心の奥底なのか、大脳辺縁系とかいう部分なのか、明確な位置や名称というのははっきりしないが、そういった隠し部屋に住む何者かが「目の前にいる最愛の女と情交を交わすことが、お前にとって最善手であるのだろう?」と問い質してくる。誠に遺憾ではあるが、僕がその存在とキッパリと決別することは困難を極める。

 しかしながら、僕は理性的であった。僕は彼女を深く愛しているが故に、理性的であった。僕は僕自身でさえも愛しているから、理性的であった。


 僕とリオは付き合っていない。交際関係にはない。俗に言う、友達以上恋人未満なる関係だ。何故ならそれが、最善だから。恋人関係を避けることこそ、お互いにとっての最善手であるからだ。



 僕等は、延々と続く性愛より、平然と続く恋愛より、永遠と続く“友愛”を選んだのだった。



 「ずっと一緒だよ。ずーっと、リオの味方だよ。リオは絶対、幸せになれるから、僕が友達として、そのサポートをするから……だから、ずっと一緒」


 “男女の友情は成立しない”だなんて常套句、案外眉唾物かもしれない。少なくとも、僕は疑っている文句であるし、或いは彼女だって。

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友愛 和泉ほずみ/Waizumi Hozumi @Sapelotte08

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