サンダルでダッシュ!

糸花てと

あなたが教えてくれたこと。

 大きな産声うぶごえをあげて、貴方は私の元へ、うまれてきてくれた。一生懸命に想像して、抱っこも勉強してきた。両腕、胸に感じる、命の重さ。ちいさな口がうごく、足がうごく。抱っこの中で、少しでも体勢を変えれば落っこちてしまいそうで。私の姿を病室の扉から見ていた彼は、“欠伸しただけだろ” と笑っていた。


 オムツ替え、夜に泣くこと、分からないことの連続。勉強したはずなのに何をどうしていいか、さっぱりだ。私の子どもなのにわからない。決まった時間に目が覚めては、貴方は泣いていた。寝返りの途中、消えちゃいそうな声で彼は言う。“抱っこでもしてれば、落ち着くんじゃない?” この時ばかりは、私も泣きたくなった。積極的にやってくれる方じゃなかった彼が、考えてくれた。まっくらな寝室に、ぽつんと灯り。聞こえた低い声に、ほっとしたんだ。


 つかまり立ち、離乳食、玩具で遊んでる姿。スマホにおさめた、ひとつ々が愛おしい。そして、私と子どもだけなのが、不思議で仕方ない。写真を撮ろうって持ち掛けても、“俺が撮るよ” そう言った。彼と子どもの写真は一枚も無い。


“パパは、あやの事すき?”


 たくさんの言葉をきいては、すぐに真似をしていた。彩芽あやめ。いろんな芽が、貴方にとっての特技がたくさん見つかりますように。そう願ってつけた名前。“嫌いじゃないよ” と彼は彩芽に言っていた。幼稚園で描いてくれた絵には、彼と私と彩芽。“手、つなぐの!” 絵と同じ、三人手を繋いだ。幸せなはずよね、ねぇ、どうして? 彼は詰まらなさそうにしてるの?

 歪んだ筆跡。涙の跡。子どもを授かってから続けた日記には、当時の想いがそのまま。






“これ、なぁに?”


 仕事で忙しくなると言い、彼が家に居る時間が減っていった。キッチン、お風呂、居間、限られたスペースしかない団地。テーブルに置かれている一枚の紙を、彩芽は指差した。離婚届。ねぇ、はじめからそういう気持ちだったの? 付き合ってた頃はお揃いとか、楽しそうにしてたよね? 彩芽がうまれたから? 大事じゃなかったの?

 限られたスペースしかないのに、どこか広く思うのは、彼の荷物が減っていたからか。状況をゆっくり見ていくと、計画的だったんだと笑えてくる。


“ねぇ、パパは?”

“パパね、しばらく帰ってこないかも”

“おしごと?

“そうだね”


 子どもについた初めての嘘。いつ頃気づくんだろ。どんな気持ちになるんだろ。金銭的にも精神的にも余裕があるうちに、実家へ行った。その辺りで彩芽を学校に通わせて……大人の都合で、よく分からないうちに、あちこち行かされる。


「彩芽、ごめんね」


 思いがぐるぐると回り、口が動いた。私の表情を確かめるように、下からのぞく彩芽は、歯を出してニカッと笑っていた。状況に不釣り合いな笑み。靴を脱いで、座席に上がる。「ママ、海が見えるよ」と彩芽につられ、窓に目をやった。

 錆びれ、静かになっている駅。この場所じゃあるのは中学までだから、高校からは寮のある所へみんな行く。若い人って少ない。


「ママ、これ買って」

「サンダル? どうして?」

「これ履いて、海行きたい」


 駅にある小さなお店。お土産や昔ながらの玩具が並んでいた。近くに海があるから、買ってすぐに遊べるものがたくさん。


「あら、可愛いわね。どれがいい? おまけしとくよ」


 お店の人が奥から出てきた。親子揃ってサンダルと、彩芽の手には飴を握らせてくれた。その場で履きたいとねだられ、裸足になる。アスファルトからの、ジリジリとした照り返し。サンダルを履いて涼しくなった足元、それだけでも夏が感じられた。


「あっちまでダッシュね」


 言い終わった途端に、彩芽は走り出す。サンダルだから転けちゃう。どんなに声を掛けても空回り、ぱたぱた、ふたりの足音がこだました。もうすぐ砂浜という所で彩芽は待っていた。流れる汗、時々吹く潮風、足だけでも冷たいものに触れたい。


「彩芽、おいで」

「つめたーい」


 段々と遊ぶことに本気になってきて、砂浜には高い声が響く。波の、押しては引いての動きに合わせる。ひやっとくるぶしまで入っては、からからに乾いてる砂の辺りまで駆け足で戻った。濡れた足に砂がくっつくのもお構いなしに。笑いすぎて疲れたとか、いつ振りだろう。


「たのしい」

「ママの笑ってるところ、ぎゅってしてくれるのも。ママのぜんぶが好き……今日のこと、日記にかく?」


 抱きしめたら、すっぽり覆ってしまう小さな身体に、私の都合を背負わせた気がした。親としてどうなんだろ。ごめんね。はしゃいで頬に砂がついた彩芽、歯を出してニカッとした。私も負けじと笑って返す。これまでの日記はしまって、これからを、彩芽といっしょに。



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