君の蒼、僕の青

@Yoshika1994

第1話

 放課後の運動部の喧騒を遠くに聞きながら、スケッチブックにアクリル絵の具で色を重ねていく。

 校舎の三階にあるこの部屋からは、桜花学園の名前の由来とも言われている立派な桜の木を見下ろすことが出来る。

 中庭にこんなに立派な桜があるのだから、この木の下で告白をすると両思いになれるというような言い伝えでもあるのかと思っていたが、去年一年間を過ごしてもその類の噂を聞かなかったので存在しないのかも知れない。

 とはいえ、去年は丸々一年それどころではない事情があったし、そんな話を気軽に聞ける先輩や情報通の同級生などもいないので、僕が知らないだけという可能性も十分にあり得る。

「……どうでもいいか」

 絵を描く時に益体もない事を考えてしまうのが僕の悪い癖だ。

 上手な人なら構図や色味を考えながら絵を描くのだろうが、自分にとって絵はあくまで趣味であり、どうしても上達したい訳でもなければ、仕事にしたい訳でもないのでその癖をどうしても矯正したいというものではない。

 しかし、気分転換に描く絵なら何も気にすることはないが、好きな空を描く時だけはもう少し集中して描けるようになりたい。

 自分が好きなモチーフを描くのに真剣にならないのは、この大空への侮辱だとすら思うからだ。

 気を取り直し、数種類のチューブから絵の具をひねり出し、パレットの上でそれらを混ぜ合わせ、自分が一番好きな空の色を作り出す。

 そのことに一旦安堵し、筆から紙にその青を載せる。

 大気のグラデーションを感じるように、光源と濃淡を意識しながら重ね塗りを施す。

海堂かいどう君は絵が上手なんだね」

「え?」

 図らずしもダジャレのような返事をしてしまったが、そもそもこの部屋には一人で居たはずなのに、急に近くから女の人の声がしたので驚きの声以外あげようがない。

 声に反応して顔を上げると、いつの間にか目の前に女性が立っていた。

 本当に無音でいつの間にかそこに居たので、一瞬幻覚か何かかと思ったが、幻覚を見るような類の薬の摂取の心当たりもなければ、幻覚を見るほどの疲労も感じていないので、単に自分が絵に集中し過ぎていただけだと思い至る。

 集中していたのが絵に対してなのか、考え事に対してなのかは今となっては分かりかねるが。

 目の前の女性をよく見ると――よく見るまでもないのだが――一年間通えば嫌でも見慣れるブレザーと、女生徒用のタイが、この学園の生徒であることを物語っていた。

 襟の縁をなぞる線の学年色が、三年生であることを示している。

 座ったまま顔を見上げると、艶やかな黒いストレートの髪と陶磁のように滑らかで、白い肌のコントラストが眩しく綺麗な顔が不思議そうな表情でこちらを覗いていた。

「海堂君、だよね?」

「そうですけど」

 いつの間にそこにいたのかとか、何故僕を知っているのかとか、こんな美人さんが知り合いに居たかとか色々考えることが多すぎて脳の処理が追い付かず、端的に質問に答えることしか出来なかった。

「君が美術部員だって聞いたから美術室に行ったのに、どこにも居ないから探してたんだよ」

 確かに僕は美術部所属ではあるし、一応ここも美術室ではあるが恐らく先輩の想像している状況とは少し事情が異なる。

「僕は第二美術部員で、ここは第二美術室ですよ」

 この学校には美術部が二つ存在する。

 学校外のコンテストに応募したり、絵を職業にしたい人が入部するような第一美術部と、僕のように放課後に趣味として絵を描く人の為の第二美術部だ。

 とはいえ、自分のようなスタイルの人は少ないらしく、緩く絵を描きたい人は漫画研究部へ、しっかり絵を描きたい人は第一美術部へと入部する。

 そのように、実体とはかけ離れた部活の有様や、ほとんど名前が同じ部活の存在の所為で、興味のない人達にとっては最早理解が及ばない状況となっている。

 なんなら第二美術部の存在を知らない人も多いだろう。

「どういうこと?」

「昔美術部が一つだった時代に、芸術科のガチ勢の人達と一般進学科のエンジョイ勢との間で派閥争いがあったらしく、分裂した名残みたいです」

 第二美術部は今や自分一人のワンマンアーミーならぬ、ワンマンクラブになっており、その時代の話を詳しくは知らないが、顧問の先生が言っていたので大意としては間違っていないだろう。

 しかし、聞いておきながら先輩はそこにはあまり興味がないらしく、そうなんだ、と軽く聞き流されてしまった。

「それで、結局何の用だったんですか?」

「そうそう、君を探してたんだよね」

「何故、探していたのかを聞きたかったんですけど……」

 なんというか、会話のテンポが独特な人らしい。

 悪い人ではなさそうだけど、一歩進んで二歩下がるような、進んだと見せかけてムーンウォークしているような肩透かし感がある。

「人が人に会う事に理由がいるのかな?」

「少なくとも会ったことのない人間を探し回ってまで会おうとするにはそれなりに理由があるんじゃないですかね」

 簡単なことだよワトソン君、とでも言いそうなくらいに自信たっぷりに言ってのける先輩だったが、流石に理由もなく見知らぬ人間を探し回る道理は、僕には思い浮かばなかった。

「冗談だよ。正直に言うと君が気になったから探しに来たんだ」

 美人な先輩にそう言われると悪い気はしないのだが、如何せん、話が進まない。

 もしかして、知りたいことを全部聞くには全てを質問しなければならないのかと、げんなりし始めた所で流石に言葉足らずだと気付いたのか、補足してくれる。

「去年の六月に全校で絵画コンテストがあっただろう?」

 本校で毎年六月に開催される、全校生徒強制参加の絵画コンテストのことを言っているらしい。

 まだ春休みが開けた直後なので今年の開催のアナウンスはまだないが、恒例行事だと謳っていたので、まず間違いなく今年も実施されるだろう。

 去年は家のゴタゴタが尾を引き、あまり気にしてなかったが強制参加なので少なくとも作品の提出自体はしたはずだ。

「一学年一クラスとはいえ、芸術科の先輩たちを差し置いて君は全校で銀賞、学年で金賞だったよね」

「そうでしたっけ。去年はその、色々あって覚えてないです」

 流石に初対面の先輩に諸々の事情を全て話す気はないが、しかし覚えていないことは覚えていないと伝えないといけない。

 ふと、そこで先輩の表情が訝し気なことに気が付く。

 さっき『先輩を差し置いて』と言っていたので、もしかしたら自分があのコンテストで銀賞を獲ったことをこの先輩が怒っているのかも知れないという可能性に行き着く。

 逆恨みだと言ってしまえばそれまでだが、勝った者は勝った者なりの気遣いとか、そういうものを求められていたのかも知れない。

「まあそれは別にいいや」

 最早言い逃れのしようもなくどうしようと頭を抱えていると、先輩が助け舟を出してくれる。

「去年描いた君の空の絵がとても気に入ったから、誰が描いたのか見ておこうと思ってね。やっぱり、海堂葵かいどうあおい君で間違いないみたいだ」

 目の前に置かれている、色を載せたばかりの紙を指差し、嬉しそうな笑顔で微笑む先輩に、少し胸の鼓動が高鳴るのを感じた。

「な、なんで分かったんですか?」

「私も君の空の青が好きだからさ」

 今の今まで、意識して人に絵を評価してもらったことなど一度もなく、ましてや自分の好きな色を好きだと言われるとは思いもしなかった。

 うっかり涙ぐみそうになるが、初対面の、しかも女の人の前で泣くのは憚られるのでグッと我慢して涙を堪える。

「そ、それにしても、そこまで探してたのならなんで丸一年もかかったんですか?」

 逃げも隠れもしていないし、自分で言うのは恥ずかしいが、そんなに探してくれていたのであればもっと早くに出会っていたはずだろう。

「ああ、私は病弱でね。やっと最近また学校に復帰したところだったんだよ。去年はほぼ一年丸々入退院を繰り返していて、学校に来る時間が無かったんだよ」

 事も無げにあっさりとそう語る先輩は、あまりに平然とし過ぎていてまた冗談でも言っているのかと思ったが、その眼は真剣そのもので到底嘘だとは思えなかった。

「そうなんですか」

「そうなんだよ。こう見えて病弱な深窓の令嬢ってやつなんだよね」

「自分で言ったらダメなやつですよ、それ」

 反応に困る話かと思いきや、本人もあまりに気にせず前向きに頑張っているようだし、僕もあまり気にしないことにした。

「ははは、それもそうだね。そうだ、これを君に渡しておこう」

 言うや否や、プリーツスカートのポケットに手を入れると、細くて綺麗な指に挟まれて、折りたたまれた白い紙が出てくる。

 残念ながらラブレターのような甘酸っぱい雰囲気は感じられない、ただのコピー紙のようだ。

「これは?」

「入部届だよ。美術部だと思ってそう書いたけど、第二美術部に直しておいてくれないかな、部長さん」

 几帳面に折りたたまれた紙を広げると、デカデカと『入部届』と書かれたテンプレートの紙に、これまた綺麗な字で『美術部への入部を希望します。青井空』と書かれていた。

 初めて先輩の名前を知ることになったが、今更何と呼べばいいのか分からないので、取り敢えずは今後も先輩呼びでいいだろう。

 しかし、部長であることは言っていなかったはずだが、どこから漏れたのか……まあ隠すまでもなく知ろうと思えば知れるので構わないが。

「わかりました。帰る時に先生に渡しておきますね。先輩は――」

「入部届を読んだだろう? 名前か名字で呼んで欲しいかな」

 フリガナは振ってなかったが、まさか今時の難読ネーム《キラキラネーム》じゃないよな……と、内心冷や汗をかきながら意を決する。

「ソラ先輩は、絵を描くんですか?」

「おっと、まさかの名前の方か。しかしうん、悪くないな」

 よっぽどその呼び方が気に入ったのか、目を閉じて腕を組み嬉しそうにうんうんと頷く。

 自分の名前が葵で名字で呼ぶと被ってしまうので名前呼びにしたのだが、ご満悦のようだ。

 しかし、やはりこちらの質問には答えてくれず、会話のテンポが独特という当初の印象が定着してしまった。

「ああ、ごめん。ちょっと舞い上がりすぎたね。絵は一応描いているよ」

 机が視線を遮っていて気付かなかったが、足元にスクールバッグを置いていたらしい。

 一旦屈んでバッグを持ち上げると、中から取り出したスケッチブックをこちらに差し出す。

 見ても良いようなので、それを受け取り遠慮なくパラパラと捲る。

 何処かの湖のような風景画から、自分達と同じ制服を着た人達の人物画、鉛筆のみで光の濃淡を付けたデッサン画など、様々な描き方の絵がどれもかなりのクオリティで描かれていた。

 そして最後の紙には、恐らく去年自分が描いたような空をメインに据えた風景画と、その裏に男性の顔が描かれていた。

 というか、僕だった。

「全校で銀賞だったから学内新聞に君の写真が載っていたんだよ。しかし、病弱な私より死にそうな顔だったね」

 写真を模写したであろう絵からでも伝わる目の死に具合は、確かに病人のようでもあったし、なんなら今にも死にそうであった。

 写真に撮られた記憶もないが、証明写真のような写り方なので、入学して間もない写真ラッシュの一環くらいにしか思っていなかったのだろう。

 我ながら情けない。

「ソラ先輩、絵上手いですね」

「外であまり遊べないから、自然とインドア派になるんだよ。去年は君にも勝ったんだよ?」

「え」

 とすると、さっきの『先輩を差し置いて』というのは単に他の諸先輩方を指して言っただけで怒っていた訳では無いのか。

 心配して損した。

「まあ、好みの問題でもあると思うけど、私は君が一番でも良かったと思うくらいに、あの絵が好きだったよ。私じゃその色を作れないしね。っと、もうこんな時間だ、健診に行くから私はもう帰るよ、また明日ね」

 もう少しくらい、褒められた喜びに浸りたかったのだが、ソラ先輩は慌ただしく帰ってしまう。

 用件が用件だし仕方ないが……。

「また明日……か」

 久しくそんな言葉を交わす人が居なかった事に一抹の悲しさと、新たにその言葉を交わす人が出来た喜びを胸に抱いて、自分も帰り支度を整えて帰ることにした。

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