屍骸に集る

 新しいリリィの人生は順調そのものだった。新しい家、新しい部屋、新しい服、新しい家族。何もかもがすべて新品で、新鮮で、素晴らしく、愛おしいの人生だ。事故によってすべてを焼かれ、顔も声も記憶も失った娘だと信じる哀れな父親と母親。父と母が居ない間に病室に来た、同情を寄せる知人、親戚たち。記憶を失ったせいなのか、もとから箱入り娘だったのか、この家で私は貴族か王族かのようなもてなしを受けられた。毎日好きなものだけが食卓に並び、欲しいものが言わなくても贈り届けられ、何一つとして不自由のない・・・いや、外に出ること以外は、何一つ不自由のない生活だった。今の凄惨な包帯塗れの見た目と、彼女リリィが持っていた視覚障害が、父と母に私を部屋に閉じ込めさせた。でも、それを差し引いても、幸福に満ちた日々だった。何日、何か月経っても父と母は私に優しかった。今日までの人生で最も幸せな時間だと断言できる。その日の飢えを凌げるか、その日の雨風を凌げるか、石を齧り泥を啜る、そういう辛さとは無縁の生活だった。きっと彼女リリィに成り済ますことができなかったら、あの薄汚れた世界からは抜け出すことはできなかっただろう。私はそのまま路傍で行き倒れて、野獣や虫たちの餌となっていたかもしれない。いや、今はこそがリリィなのだ。はもうこの世に居ない。の人生をがもらったということは、だけの特別な秘密なのだ。

 部屋で独り、そんな風に感傷に浸っていると、ふと、シデムシのことを思い出した。昔盗んだボロいラジオでそんな虫の話が垂れ流されていた。そいつは死体から湧き出て、しかも他のメスに卵を預けてしまうんだとパーソナリティが言っていた。死体に集り、他所の家庭に寄生して気付かれないまま生活する。まさに今の私みたいな虫だ。そう考えると、私以上に成功したは居ないのではという気がしてきた。私はいうなれば、シデムシの姫だ。たった独り、誰とも共有する事のない高揚感を感じる。彼女リリィには申し訳なく思っているけれど、彼女はもう死んだのだから、生き残った私の糧にしたとしても、それくらいは許してくれるだろうと思っている。私たちはたった1日だけだったけれど、友達だったのだから。

 そこから数週間は、ぎこちない家族の日常が、平穏な日常が続いていった。父は父らしく、母は母らしく、甲斐甲斐しく私の世話を焼き、気にかけ、私の容態を度々心配した。私が何か新しいことを一つ行うたびに、例えば本を1冊読み終わるたび、その本の内容を母に伝え、感想を共有するたびに、喜び、驚き、動揺し、時にはともに悲しみ、本当の親子のように過ごした。私には親など居たことが無かったけれど、もしも親というものが本当にあったのなら、こういうものなのかもしれないと思った。父は度々仕事で家を空けたが、帰ってくると真っ先に私の部屋に来て話をした。仕事の話、友人の話、趣味の話・・・。私の声は焼け爛れて、タダでさえ汚い割れた音を出していた喉は、更に酷く、聞き取りづらい声になっていたが、父は懸命に私の話を聞いた。母はその間、私の焼け爛れた髪を撫でてくれた。まさに、愛にあふれた家族像そのものだった。全てが仮初でも偽物でも、私にとっては初めての本物の愛のある時間に違いなかった。

 ただ、そういう日常はあまり長くは続かなかった。近頃特に、父と母が冷たいような気がする。病室でになったあの日、2人は戸惑いながらも娘の帰宅と生還を喜んでいたように思う。けれど、彼らも幾日も、そしてきっとこの先もがリリィの記憶を取り戻さないことを、それとなく悟ってくると、あの日以前の美しい容姿と声、優しい性格と思い出を持った元の娘は帰ってこないのだという落胆とともに、悲壮な表情ばかりを私に見せるようになった。少なくとも、私にはそう見えた。それと同時に、に対する激しい嫉妬の炎が胸の内で燃え上がった。つまるところ、愛されているのは、リリィであって、私ではなかった。どんなに私が私らしく振舞おうとも、私はリリィにはなれなかったし、リリィもまた私にはなれなかった。本当の意味ではただの他人である、変わってしまったと信じ込んでいるだけの、包帯の奥の焼け爛れた醜い他人の顔、他人の声、他人の記憶と人格を、2人が受け入れられないのも当然だった。リリィは私に持っていないものをすべて持っていた。容姿、声、正確、人望、優しい家族と親類、私がに成り済ましたことで手に入れたはずのものすべてが、未だにのものに違いないという残酷な現実が、私の胸を貫いた。

 今日も無言の食卓に着く。並んでいるものは彼女の好物ばかりだと言うのに、3人の表情は暗い。いつしか、食卓は常に静寂が支配するようになってしまっていた。毎日全く同じように、リリィの思い出の中の料理だけが繰り返し繰り返し並んでいる。母も、何か食べたいものがあるか、などと聞く勇気はもう無いのだろう。それをしてしまったが最後、リリィの思い出が消え、新しい全く別な誰かをリリィとして迎え入れてしまうような、そんな気がしているのかもしれない。もはや思い出も面影も、何もない空虚なを、この父と母はどのような思いで見つめているのだろうか。想像するほどに悲しい、憂鬱な気分になった。目が合えば、2人ともやり切れないような、なんとも言えない表情で笑いかける。精一杯の、愛情ある応答なんだろう。

 みんな疲れ切っていた。この家の暮らしはあの日以前の私の暮らしよりもずっと良かったけれど、崩壊は間近で、私は選択を迫られているのだと悟った。がこの家には居続けられないのであれば、私は記憶を取り戻す2人を騙すか、もしくはこの家を出ていくしかないだろう。そこで私はまずを入れるために、出来る限り差し障りのない記憶を取り戻してみることにした。

 記憶の偽装はそんなに難しくない。ほんの少し、含みを持たせるだけでいい。なんてこと無いことだ。例えば、2人の食事に入っていて、私の食事に入っていないもの。それは彼女が嫌いだったか、アレルギーがあったものに違い無い。知人や親戚たちは、アレルギーのことは一言も言っていなかったから、それは嫌いなものに違いなかった。その話をするのだ。食事の話ならば毎日起こっていて、嘘を出来る限り吐かずに済み、自然で収集を付けやすい話題だ。

 繰り返される無言の食卓。食事もそこそこに私はおもむろにスプーンを置く。スプーンがお皿とぶつかって、金属音が小さく静寂を破る。父と母はその音に気が付き、手を止める。そして私はほんの少しの間を置いて、口を開く。


「・・・そう言えば、わたし、玉葱は食べないのよね・・・。」


しわがれた声で、出来る限り嘘を混ぜないように、探れるように、相手が勝手に思い込むように言葉を選んでいく。恐る恐る2人の顔を見上げると、両親は怪訝な顔をしている。しまった・・・怪しまれたか、と思ったその時、母が口を開いた。


「そうね、リリィは玉葱が嫌いだったものね。私たちの食卓では、いつもリリィだけが玉葱抜きだったもの。ほら、あそこにアルバムがあるでしょう、そこにもいつもリリィだけ玉葱抜きの料理が・・・」


2人はその後もずっとわたしが初めて聞く思い出話を語っていた。幼いころ、熱が出て必死に看病したこと、公園で犬に追い掛け回されて転んだこと、目の病気にかかって心配したこと・・・私は正直に、思い出せないとばかり言っていたけれど、2人はまるで、水を得た魚のように、元気を取り戻していった。

 つまるところ、私の演技は上手くいった。だから、まだこの生活を捨てずに済むだろう。いざとなれば、記憶を取り戻せないことを口実に、暮らしに困らないだけのお金をもらって外で暮らそう。それでもこの生活と引き換えに自由を得られるのだから、それも悪くないと思った。いつ崩壊するとも知らないこの生活、いつ捨てても良いという覚悟だけは必要だと思った。



 深夜。人の気配をなんとなく感じて目が覚めた。こういう時は、いつも悪いことが起きる時だ。リリィが死んだあの火事が起きた日もこうだった。部屋から出て人の気配と明かりに誘われてふらふらと歩いて行った。暗闇の先の明かりが漏れ出た部屋から、父と母がなにやらひそひそと話し込んでいるような声が聞こえ漏れてきた。私は2人の会話を気付かれない距離で、何とか聞き取ろうとした。


(あの・・記憶を失って・・・記憶を・・戻し・・・)(もし・・んなことになった・・・リリィ・・・しまうわ)(声が大き・・・あの子が・・・しかない・・・)(でももし・・・記憶を失って・・・)(いずれにし・・・子の・・・は・・・だ。・・・しかない・・・いる・・・だ。)


 よく聞き取れないけれど、やはり父と母も悩んでいるんだろう。この家族はもはや崩壊寸前なのだから、仕方がないかもしれないけれど・・・。何をどうしようと、仮初のこの家族の関係の中では、やはり他人は他人でしかないのだ。探りを入れて正解だった。このまま偽りの記憶を作りこんで言ったとしても、父と母をより悩ませるだけに違いない。今のリリィはあまりにもリリィ彼女と違い過ぎる。違い過ぎるリリィリリィ彼女になっていくことは2人には違和感しかないだろう。成りすましには限界があるに違いない。このまま行けば、調父と母がを疎ましく思うのだろうから、そうだ、私はこの家を出て、一人で生きていくことにしよう。数か月の間でも、には十分すぎるほど幸福な時間だった。2人にはお金も要らないと言えば、きっとは新たな人生を得られる。もうそれだけで十分だ。私は明日から、もはや薄汚れた、盗人の人生ではなく、この白紙の人生を、ついに腐った死体リリィの中から這い出て、自由な大空と大地へと歩を進めるのだ。しかし数カ月、偽りとは言え、家族として過ごした2人だ。柔らかなベッドに潜り込みながら、明日どんな風に父と母に、この家を出る理由を話そうか、父と母はどんな表情をして話を聞くのかを考えると、まるで彼ら2人が本当の両親かのように思えて、胸が苦しくなった。どんな話し方を想像しようとも、最後の結末は悲しげな2人の表情が思い浮かぶ。彼らはがリリィだと信じて決して疑ってはいないはずだ。確かに私はお人よしの父と母を騙して死体彼女から這いずり出てきたシデムシに違いなかったのだ。

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