死出虫の娘

QAZ

始まりの始まり

 記憶を失った。



 というのは真っ赤な嘘だ。私は今、他人に成り済ましている。裕福過ぎないほどのちょっとした資産家の娘にだ。記憶を失ったと嘘を吐く人間が、この世に何人いるだろうか?半分より少数派なのはきっと間違いないだろう。けど、きっと誰だって私と同じ境遇だったならば、同じことをすると思う。一つも嘘を吐かない人間など居やしないのだから。



 飢えと寒さ。そう、それはほんの出来心というヤツだった。まだ記憶もないような頃・・・生まれてすぐ、私は母親に捨てられたと聞いた。母親は男に捨てられた。男は家族に捨てられた。薄汚い人間関係の中で、誰にも望まれずに私というごみが生まれた。ごみだって生きたいという意思がある。生存することはすべての人に認められた権利だ。どんな人生の中にあっても、どんな苦しみがあっても、生きたいという意思がある限り、生きようとすることを誰も止めては。捨てられた子供の行き先である施設でどんな虐待ことが行われていても、誰も助けてはくれない。私に与えられた選択肢は、、生きるなら施設にだけだ。その日、隣の部屋の少女が施設の人間に犯されている最中に、私は外へ飛び出した。彼女は酸を浴びて喉を焼き、見た目を悪くすることで襲われるのを防いでいた。効果はそれなりにあったから、私も真似をした。生きるために命を懸けることなど簡単な事だった。その彼女も犯された。彼女は残念ながら、運悪く、選択肢を誤ったのだ。理由など知る由もないが、ここに居る限りどんな涙ぐましい防衛手段も意味を為さないという確かな事実だけが横たわっていた。

 腐った泥の中から這い出ると、その先は更に汚染された毒の沼が広がっているばかりだった。最初の寝床はマンホールの中だった。虫とネズミが這い回る下水道の中、雨と風こそ防げたが、そこはどんな生物にも人気の場所で取り合いだった。飢えに苦しみ目をギラつかせた同じ境遇の子供らが、窃盗の集団を作ってなんとか生きていた。女は殆ど居なかった。私はあっという間に彼らの内の誰かに犯された。結局私にも隣の部屋の少女にも、選択肢など無かったのだ。泣きながらマンホールから逃げた。下腹部が、何日も何日も痛んだ。犯したヤツの顔など覚えてすらいないけれど、あの痛みは二度と忘れないだろう。今の私なら、ソイツの頭蓋を石で叩き割るくらいのことはできるだろうか・・・。毒の沼を抜け出した先は、草一つ生えもしない荒野がただただ広がっているばかりだった。こんな私を引き取ってくれるところも、雇ってくれるところもあるはずがなかった。時々見つける人気の無い家々に忍び込んで、その日の分を盗みをして暮らした。寝床のほとんどは土か石の上だった。雨が降った時は寝ることも出来なかった。

 その日の出来事は、単なる事故だった。私にとっては幸運な、運命の悪戯とでも言うべき特別な事故だ。私はその日の雨風を防ぐために忍び込んでいた、湖畔の資材置き場で彼女と出会った。この資材置き場の所有者は、彼女の親だと後で知った。ろくに整理もされず、ほとんど放置されていたような資材置き場だった。埃っぽかったが、鍵が壊されていて、入るのに苦労は無かった。資材置き場の中には管理者が休憩するためのベッドだとか毛布だとかがあった。薄汚れてはいたけれど、私にとっては十数カ月ぶりのホテルだった。疲れ切った体をベッドに横たえると、ベッドの中に沈み込むような感覚の中、一瞬にして眠りに落ちた。

 どれくらいの時間が経ったのか、ねえ、ねえ、と誰かが言った。肩をゆすられる。もしかすると、管理者かもしれない。眠りの中でぼんやりとそんなことを思った。もはや刑務所のほうが、まだ生きるのにはいいかもしれない。そんなことを思っていたと思う。もしくはその相手に自分をば、少しは優しさを向けられるかもしれないとか・・・。懸命に瞼を持ち上げると、視界には美しい少女が一人映った。手を彼女の頬にかざすと、長い金髪が綺麗になびく。あなたはだれ?と、天使のような美しい声が響く。私とはあまりにも対照的な彼女の存在に、私は茫然としていた。彼女はとても優しかった。私が謝ってすぐに出るというと、そんな必要はないと言ってくれた。私の身なりや容姿の汚さや、醜い声も、私の素性すら気にしていないようだった。彼女はまるで世間知らず、純粋な天使に違いなかった。

 私はその時の彼女がどんな思いを抱いていたのか、今でもよく考える。彼女は目があまり良くないと言っていて、あまり外に出してもらえないらしかったが、今日はここならば出ても良いと言われたと言っていた。彼女は友達がいなかったから、私に友達になってほしいと言ってきた。私も友達は居なかったから、彼女にいいよと言ってあげた。私と彼女との関係はそれだけだった。名前すら、その時は知らなかった。いつどれだけ考えても、私には彼女の気持ちなど、分かりようも無かった。

 気が付くと、火が私たちを取り囲んでいた。どうしてそうなったのかは知らないけれど、私たちは二人で資材置き場でなんとなく遊んでいて、ただそれだったけれど、その資材置き場が火事になった。私たちは火と煙に追い回されて、私は、ああ・・・ここで死ぬんだなって思った。そこでの記憶はそれしか無い。

 次に気が付いた時は、病室で私は横になっていた。彼女は死んで、私が生き残った。私の顔には包帯が巻かれていて、私は顔を失ったのだと告げられた。酷い火傷だと聞いた。ヒリヒリと痛む顔を抱えながら、医者に、あなたは誰ですか?と聞かれた。死んだ彼女は原型も留めないほどに焼けていた。生きている人間は誰で、死んだ人間が誰なのか、特定が必要だった。私は選択を迫られていた。彼女の親と名乗る人たちが2人、病室に入ってきて、あなたはリリィなの?と聞いてきた。私は焼け爛れた喉で言った。「覚えていないわ・・・。」と。彼女の親は2人で顔を見合わせて、それから医者にこう告げた。きっとこの子はリリィに違いありません、と。私はようやく彼女がリリィという名前だったと知った。かわいらしくていい名前、羨ましいと感じた。今は新しいのものだった。

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