Report.03 アダムの怒り

 シェリルは、アダムの教育方針を大きく変更した。それまでは絵画や彫刻等の芸術作品に触れていた時間を学業にあてるようにした。

 アダムの頭脳は、何でも素早くスポンジのように吸収する。その学習能力は、ちょうど彼の外見通り、五歳ぐらいの子供と同等、いやそれを遥かに凌駕していた。つい一ヶ月前までは、四則演算を教えていたというのに、今や二次方程式を易々とこなすまでになっている。まさに神童と呼ぶに相応しい。

 特に図鑑を読ませていた影響か、生物学、中でも形態学・分類学に非常に強い興味を持った。そこでシェリルは、アダムに生物学の道を目指させることをアレックスに提案した。だがこの提案もアレックスに苦い顔をされてしまった。


「形態学・分類学では、アダムが人類の文明を継承させるに足る存在だと政府に証明する説得力がない。政府からは、『医学、生物工学、機械工学、もしくは宇宙工学の権威となる存在にアダムがならねば、予算を削減する』と明確な指示を貰っているからな」

「あなたは、アダムのことを予算を取るための道具とでも、思っているのですか」


 芸術を軽んじるにとどまらず、学問の特定の分野にまで差別するのか。形態学や分類学を志した同級生もいる身として、シェリルは腹の虫がおさまらなかった。

 が、かなり強い語気を放ったにもかかわらず、「そう思っている。そう思わねば、このプロジェクトそのものが頓挫する」と居直られてしまった。

 これでアレックスに失望するのは二度目か。

 だが、彼の言うとおりにしなければ、アダムは、リセットされてただの肉塊に戻されてしまう。だから従うより他はない。これではまるで、アダムを人質に取られているみたいではないか。苦虫を噛みつぶすような顔をしていたのか、アレックスに睨まれてしまった。


 シェリルがアダムの教育担当になって、二ヶ月が過ぎたころから、アダムの学習に得意不得意が明確に出始めてきた。数学でも代数は得意だが、幾何となるとどうにも習得が遅い。それがどうしてか――と考え始めて、習得に時間がかかるようになった時期がちょうど、幾何で立体を扱うようになった時期と重なっていたことに気づいた。

 アダムとして発現してから研究所に籠りきりで外の世界に触れてこなかったから、空間認識能力が低くなってしまったのだ。もちろん、ヴァーチャルダイブによって外の世界を模擬的に体験させることはできるし、アダムには何度もそれをやってもらっている。だが所詮、仮想世界での体験は、本物の世界での体験が下地になって構築されるもの。どれだけ技術が進展しても、研究所の中でできる勉学だけでは限界がある。その事実をアダムから再認識させられた。けれど、いくら見た目が人間そのものであろうと、現時点では未知の地球外生命体であり、国家機密の研究対象である彼を研究所の外に出すことは叶わない。

 そんな彼を教育する上での数々の制約に、心がすり減っていった。


「シェリル先生、僕に黙っていること、いろいろあるよね」


 だからヴァーチャルダイブで、核融合研究所の中を見学しているときに、彼が漏らしたその一言に、ぞわり――と鳥肌が立った。


「黙っていることって?」


 できるだけ平静を装って、振り返る。アダムはしゃがみ込んで、精気の無い瞳で床の溝を撫でていた。その溝の段差はヴァーチャルダイブで感じることはできず、それを撫でてものっぺりとした床のような感触しか得られない。


「僕の外の世界は少しおかしいよね? 本当はここに段差があるけど、全然でこぼこしていない。それに、ちょっと前まで、僕の外の世界は、花が植えてあったり、動物たちがいたんだ。なのに今行かせてもらえる外の世界は、大きな機械が動き回るところばかり、空なんてもうずっと見ていない」


 アダムが触れる学問の分野を制限されるようになってから、ヴァーチャルダイブで体験させる世界も制限されるようになった。彼が芸術や自然に触れる機会は尽く失われ、かわりに工場や研究所の中の世界が与えられた。外の世界といいながら、建物の内部ばかりとなってしまった現状に、彼は不満を募らせていた。


「シェリル先生は、僕のこと嫌いなんだよね?」

「え――えっと、どうしてそう思うの?」

「シェリル先生は、僕が興味を持ったことをさせてくれなくなるから。僕が好きだった絵も、彫刻も、花も、動物も、今の僕には与えてくれない。そんなことするのって、僕が嫌いだからでしょ?」


 シェリルの、何とかして誤魔化して作っていた笑顔が、一気に崩れてしまった。と同時に膝から地面に崩れ落ち、右眼から一筋の涙が流れ出た。

 何を言い返せばいいのか――、シェリルには返す言葉が見つからなかった。やり場のない気持ちを彼にぶつけることなんて出来ないし、かといって全てを打ち明けることもできない。

 自分のことを見つめる彼の瞳が、助けを求めている、と同時に怒りを訴えていることを感じ取りながらも、「怒りたいのは誰なんだ」と思ってしまう気持ちをコントロールしきれなくなってしまった。


「ごめんなさい。アダム。あなたにそんな思いをさせて――、本当にごめんなさい」


 シェリルに出来ることは、そう繰り返しながら涙を流すことだけだった。

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