7-3

 夏休みに入ると、週に一度は佐々木と予定を合わせ、図書館で勉強するようになった。二人とも、目指すのは同じ大学だった。

 閉館時間を告げる放送が流れ始め、僕らは帰り支度を始めた。図書館から出る際、受付カウンターに置かれた『返却日』の表示から、僕は今日があの日から丁度一年目であることに気が付いた。

 一年。

 嘘だ、という気持ちがないわけじゃない。振り返れば、すぐ後ろにあの日の記憶は存在している。だけど、それだけの時間が経ったのだと言われれば、やはり納得できる程度には時間が流れた実感もある。

 僕は前方へ目を戻す。一年後の自分の姿を想像してみる。

 何も見えない。自分の足下から伸びる道の先は、霧の中に消えている。道が続いているのかさえ定かじゃない。

 だけど、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 歩み続けなければならない。歩いて行けば、どんなに濃く立ちこめる霧だって、少しは見通せる筈だ。道が途切れていたとしても、その兆候ぐらいは察知できるだろう。少なくとも、こことは地続きの場所に行こうとしているのだ。

 そうだ。

 今の僕がかつての〈僕〉を抱えているように、一年後の〈僕〉は今の僕を抱えている筈だ。その先もずっと、僕はいくつもの〈僕〉が続いて生きていく。考え方や好きな本は変わってしまうかもしれないけれど、それも含め全てが今の続きだと考えれば、恐れることは何もない。

 やってはいけないことは二つ。

 過去の自分をなかったことにすることと、途中で諦めてしまうことだ。


 図書館の前で佐々木と別れ、家路につく。幹線道路を渡り、寂しい田圃道を抜け、我が家に辿り着いた。門以外は出来てまだ一年も経たない家は、月明かりの下でも新しさが窺えた。

 玄関に入り、段々と薄れつつある「新築のにおい」を嗅ぎながらリビングへ向かう。

「ただいま」

 前と全く同じ間取りだけど、リビング・ダイニングは未だに広く感じる。壁際のスペースがそっくり空いているからかもしれない。

「やあ、おかえり」

 テレビを観ていた秋津さんがソファーの向こうから言う。

「おかえりなさい、ユキちゃん」

 台所で夕飯の支度をしながら母さんが言う。

「晩御飯、もうすぐ出来るから。手、洗ってらっしゃい」

「うん」

 甘辛いにおいがした。テーブルには、カセットコンロが置かれている。

「今日はすき焼き?」

「そ。ユキちゃんの好きな白滝もたくさん買ってあるわよ」

 僕は肩を竦める。

「ありがとう」

 そしてリビングを後にする。

 階段を上がり、自分の部屋へ入る。

 灯りを点けると、暗い窓硝子に自分の姿が映った。僕はカーテンを閉めようと、窓辺へ向かう。

 ふと、カーテンを掴んだ手が止まった。

 僕は、窓に映った自分を見つめる。

 窓の中の僕も、こちらを見つめ返してくる。

 いつも通りの、見慣れた顔。少し髪が伸び過ぎているかもしれない。

 そろそろ切りに行こうかな、とカーテンを引きかけた、その時だ。

 相手の姿に、ブロックノイズが走った。

 いや「走ったように見えた」と付けるべきかもしれない。それぐらい一瞬のことだった。

 僕はその場に立ったまま、動けなくなった。もう一度、同じことが起こるのを待つ気持ちもあった。

 だけどそれきり、異変は起こらなかった。どんなに待っても、窓に映る僕は僕のままだった。

「ユキちゃん、ご飯、食べましょう」

 階下から母さんの声がした。

「今行くよ」

 肩越しに応えて、僕はカーテンを閉める。それから、踵を返して部屋を出た。


〈了〉

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ビハインド 佐藤ムニエル @ts0821

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