7-2

 幸いにも僕は、気を失ってからすぐに消防隊に助け出されたらしい。

 怪我は前の事故ほどひどくはなくて、二学期が始まる前には退院出来た。

 僕が入院している間、母さんと秋津さんはOMOKAGEの貸出業者に、虚偽の申請をしたことを申し出た。業者とどのような細かい話し合いがされたのかは知らないけれど、今回の事の顛末を報告することを条件に、和解が成立したみたいだ。大部分が焼けてしまった家については、火災保険が下りるらしい。

 取りに戻った思い出の品は、残らす焼けてしまった。あのクローゼットの燃え方を思い出せば、当然の話だ。

「大丈夫だよ」

 そう言ったのは西野さんだ。僕は再び彼女によるリハビリを受けたのだ。尤も今回は、ごく短い期間だったけど。

「たしかに焼けちゃったのは残念だけどさ、全部が全部なくなっちゃったわけではないじゃない」

 いつかと同じ、中庭のベンチで並んで座りながら彼女は言った。

「全部燃えちゃいましたよ」

 僕は言ったけど、西野さんは小さく首を振った。

「物はなくなっても、記憶はなくならないの。初めてイタズラしたこととか、生意気言ったこととか、おねしょした時のこととか、全部憶えてる。母親にはね、そういう機能が備わってるんだよ」

「そうでしょうか」

「そうだよ。そうするのが親の務めだし。忘れようと思ったって、嫌でも忘れらんないよ」

 だからさ、と西野さんが続ける。

「子供はひたすら前向いて進めばいいんだよ。前へ前へ、ってね」


 退院した次の日、仮住まいのアパートを佐々木が訪ねてきた。突然のことで驚く僕に、玄関の前に立つ彼女は言った。

「小母さんに話があって」

 それで、彼女が何をしに来たのかがわかった。

 狭いアパートでも、隣の居間で話す声は聞こえなかった。二人が静かに言葉を交わしていたのもあるけれど、僕自身が聞くべきじゃないと思っていたこともある。佐々木だって聞かれたくなかった筈だ。

 ただ、どうしても気持ちを抑えられなくて一度だけドアの隙間から居間の様子を窺った。座卓を挟んで向かい合う、佐々木と母さんの横顔が見えた。

 母さんは微笑んで、何か言葉を掛けていた。

 その向かいの佐々木は、俯き加減だった。

「ありがとう」

 話がどういう流れを辿ったかはわからないけど、母さんがそう言う声は聞き取れた。

 俯いていた佐々木の頭が、更に下がった。いからせた肩が、小さく震えていた。僕はそっと引き戸を閉めた。


 九月になると何事もなかったように学校が始まり、文化祭、体育祭、修学旅行といったイベントが頭の上を通り過ぎていった。いずれの行事でも、何もなかったわけではないけれど、かといって特筆すべき出来事があったわけでもない。あの夏休みに比べれば、随分と薄味な記憶でしかない。

 年が明け、三月になると、僕と共に入学した人たちが卒業した。もちろん、佐々木もその中の一人だ。

「これから一年何をしようかな」

 学校からの帰り道、自転車を押しながら彼女は言った。近くの公園から飛んできたらしい桜の花びらが、賞状筒を差した籠に舞い落ちた。

「そこは勉強しようよ」

 僕は言った。

 第一志望に受からなかった佐々木は、一年浪人することになった。夏休みに僕の練習に付き合わせたせいだと謝ったら、彼女は首を振った。まさか僕に気を遣って一年待つことにしたんじゃないかと訊ねたら、「それ以上言われるといよいよ惨めなるからやめて」と溜息を吐かれた。

「まあ、何はともあれ、これからは同じ受験生ということで」

 佐々木は言った。

「改めてよろしくね」

 彼女が選択した理由の、本当のところはわからない。だけど、もう一度彼女に追いつけることを、彼女の横に並べることを、僕は素直に喜ぶことにした。

 四月には無事に進級し、クラス替えがあった。僕たち三人は別々のクラスになった。

 うちの学校では、三年生は進路に応じてコースに分かれることになっている。理系進学、文系進学、就職・専門学校の三コースだ。僕も喜多君も稲見さんも、それぞれが見事に別々のコースを選んでいた。

 喜多君は公務員試験を受けるのだという。進路希望を出した後に初めて聞いたのだけど、消防士になるのが小さい頃からの夢だったそうだ。

「幸いにも、火事場の経験もあるしな」

 お役に立てて何より。

 稲見さんは予想通り、理系進学コースだった。やっぱりコンピュータ関連の勉強をしたいのだと前から話していた。三年生になって一月も経った頃、彼女はプログラミング大会で優勝した。全校生徒の前で表彰される彼女の背中は、やっぱり小さいままだった。

 二人とクラスが変わってから、僕はまた、教室で一人になってしまった。だけど、不思議と一年前のような孤独は感じなかった。自分の存在を認めてくれる人が近くにいるというだけで、「一人」ではあっても「独り」にはならずに済んだ。それに昼食は相変わらず、屋上に集まって三人で食べた。

 喜多君が冗談を言って、稲見さんがそれを窘め、僕が笑う。一度は失いかけた「普通」がそこにはあった。

 僕は笑いながら、OMOKAGEと走る前の晩に満月を見上げていた自分へ声を掛ける。

 大丈夫。満月は、まだ何度も見ることが出来る――と。

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