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 気付いたら目が開いていた。

 起きている、と実感が湧いたのは不愛想な天井を眺め出して少し経ってからだった。

 いや、違うな。いつから天井を眺め出したのかも覚えていない。僕は知らないうちに眠りの世界から追い出されたのだ。更にいえば、いつ眠りの世界へ放り込まれたのかもわからない。今頭の中にある最も新しい記憶は――思い出せない。

 取り敢えず僕は今、ベッドに寝ている。

 徐々にだけど、周りのことがわかってくる。少なくともここは自分の部屋ではないこと。部屋には僕一人しかいないこと。情報と同時に、不快感も押し寄せる。なんだか口元が生暖かい。息もしづらい。視界の真ん中に透けた緑が見える。たぶん、いや絶対、息苦しさの原因はこれだ。

 外そうと試みる。だけど、腕が動かない。付いているのか不安になるほど何の感覚もない。僕の腕はどこにある?

 身体を起こすなんて以ての外だ。まるで力が入らない。力を入れるべき肉体があるのかさえ定かじゃない。意識だけがベッドに縫い付けられたみたいだ。というより、僕自身がベッドになってしまったようだ。

 そう思ったら突然、デジャヴに襲われた。前にもこんな悪夢を見たことがある。

 つい今しがたまで見ていた夢は、違うだろうか。思い出せない。長い夢を見ていたという事実しか僕の中には残っていない。

 先ほどより少しだけ、見回せる範囲が広まった気がする。いや、実際に広まっている。僕の身体は確かにあった。もちろん腕も。僕はベッドになどなっていなかった。だけど、安心は出来ない。むしろ不安の方が依然として大きい。

 腕からは何本もの管が、ベッドの外へと延びている。やろうと思えば、全身の血を抜き取ることだって出来そうだ。それに、頭の中で鳴っているこの音。違うな。外から聞こえてくるのか。けど、頭の中にありそうなぐらい、間近で聞こえる。いかにも機械が発するような信号音が、一定の間隔を保って鳴っている。僕が苦しさを覚えると、信号音は僅かにテンポを崩す。

 もう一度、腕を動かしてみる。力は入らないけど、霧の向こうの灯台を見るみたいに、今度は指先までの存在が感じられる。

 動け。

 僕は念じる。上手く開かない口で呟く。

 動け、動け、動け。

 やがて右腕が持ち上がった。けれど、腕は自前の意志を持っているかのように僕のいうことを聞かない。やっとの思いで顔の傍まで持ってきても、何かを掴むなんて繊細な動きとは一切無縁で、マスクを払い除けるのが精一杯だった。

 新鮮な空気を吸えたと思ったら、淡々と刻まれていた信号音が突然、悪さを糾弾するような警報に変わった。うるさい。でも僕にはどうすることも出来ない。この感じ、何かに似ている。そうだ。朝、目覚ましの音で目が覚めた時だ。携帯電話のアラームを止めたいのは山々なのに、起きたばかりの身体は動かない。いつもなら、そのままウトウトしていると母さんが部屋に起こしに入ってくるのだ。

「ユキちゃん……」

 母さんの声だ。

「ユキちゃん!」

 わかってる、起きるよ。でも、身体が動かないんだ。

 このままじゃ遅刻するな。遅刻?

 今日は何曜だっけ。

 天井だけの視界に母さんの顔が現れた。母さんは泣いていた。頬や額には、ガーゼが充てられている。

「母さん……怪我、してるの……?」

 僕は言う。言ったつもりだけど、声がカサカサに掠れていた。

 すると母さんは、僕の包帯だらけの右手を持ち上げた。人に触れられて初めて、自分の手の存在が実感出来た。

「ユキちゃんが助けてくれたから、これぐらいで済んだのよ」

 顔に纏わりつく熱気。焦げ臭さ。躍る炎。感覚の彼方此方に、断片的な記憶が残っている。それらを集め合わせると、一つのビジョンが出来上がる。さっきまで見ていた夢の一場面のように思えた。

 戸口に誰か現れた。

「ユッキー!」

「向田君!」

 二人分の声がする。聞き覚えのある声。懐かしい声。

 金髪の男子と、黒髪の女子が部屋に駆け込んで来る。

「気が付いたかこの野郎!」

「身体、痛くありませんか? わたしたちのこと、わかりますか?」

 二人は笑っているようで、泣いているような、どちらとも取れる顔をしていた。彼らを見ていたら、胸の底からお湯のようなものが湧き出てきた。

 遅れてもう一人、入って来る。

 佐々木がゆっくりと近付いてきた。

 彼女は立ち止まる。目を細め、小さく頷く。何も言葉はなかったけど、何を言われたのかわかる気がした。僕も仰向けのまま、顎を引いた。

 長い夢だと思っていたものは、夢じゃなかった。なかったことにはならないし、なかったことに出来もしない。仮に出来たとしても、なかったことになどしたくない。紛れもない、僕の一部だ。

 僕は今、生きている。

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