6-6
手摺りを伝いながら、階段を一段ずつ上がる。
ガスは一階と変わらず、むしろ二階の方が濃いように思えた。目が痛い。視界が泪に滲む中、僕は手近な部屋から母さんの姿を探していく。
「母さん」
咳き込みながら呼んでみるけど、返事はない。一部屋目を諦めて次の部屋へ移る。ここにも母さんの姿はなかった。
廊下の突き当たり、一番奥が僕の部屋だ。
扉が開いていた。考えるまでもなかった。僕は、すっかり景色の変わった自室へと飛び込んだ。
ベッドへ縋りつくような恰好の、母さんの背中があった。
「母さん!」
返事はない。駆け寄って肩を揺すると、唇の間から呻き声が漏れてきた。
「ユキ……ちゃん……?」
「しっかり。立てる?」
僕は母さんに肩を貸しながら立ち上がる。母さんは、芯のない人形のように凭れかかってくる。
「ユキちゃん……大きくなったわねえ……」
そんなうわ言を聞きながら、ドアを目指す。
横目に、煙の中に佇む人影が映った。誰が立っているのか、見なくてもわかった。どんな表情を浮かべているのかさえわかる気がした。だから僕は、前だけを向いて部屋を出た。
階段を下りる途中で、焦げた臭いが漂ってきた。僕は母さんを覆うようにして、階段を降り切る。
気のせいかと首を捻る間もなく、煙の向こうでちらつく橙色が見えた。その色は、瞬きするごとに増えていく。充満しているのが引火性のガスじゃなかったのは幸いだ。けど、その幸運だって「最悪の結末」の先延ばしでしかない。
やはり炎が躍っていた。台所は特に火の手が激しくて、カウンターの向こうを見通すことさえ出来ない。母さんがそこで料理を作った記憶諸共焼き尽くさんとしているようだ。
吹き付ける熱気につい脚が止まった。けど、迷っている暇はない。
「母さん、行くよ」
リビングへ踏み込む。なるべく炎から母さんを遠ざけながら進む。そんなに広い家でもない筈なのに、出口が遠い。すぐ後ろに火の手を感じながら、背中を炙られる思いでようやく窓に達した。
庭に出ると、久しぶりに息を吐くことが出来た。熱帯夜だということも忘れるぐらい、空気が心地良い。遠くで消防車のサイレンが聞こえる。
「足、気を付けて」
「ユキちゃんの絵……」
母さんが虚ろな声で呟いた。
「ユキちゃんの写真……ユキちゃんの通知表……ユキちゃんの思い出……」
促せばついてきた足が止まる。
「……取ってこなくちゃ」
「いいよ、そんなもの」とは言えなかった。
僕は、僕の過去に縋る母さんを否定出来なかった。それは僕の過去であると同時に、母さんの過去でもあるのだ。僕がいらないからといって、勝手になかったことに出来るようなものではない。
家の中を振り向くと、白い煙の向こうでは橙色がちらついている。さっきより窓に近くなっている。
あまり、時間はなさそうだ。
「大丈夫だから」
僕は言って、再び歩き出す。
喜多君は門の外にいた。秋津さんを安全な場所に寝かせてくれたらしい。後ろではいよいよ火の手が外からもわかるほど上がり始めた。
「消防車も呼んどいたぜ。ま、とにかく全員無事で良かった」
道の向こうに、赤色灯が瞬き始める。こちらへ向かっているのは明らかだ。
「喜多君、母さんをお願い」
僕は、母さんの身体を彼に預けた。というより、押し付けた。
「は? おい、どこ行くんだよ?」
「なるべく家から離れて」
「おい、ユッキー!」
喜多君の声に背中を向け、僕は今来た道を引き返す。
階段を覆っていた煙は、黒い「本物」に変わっていた。
テレビだったか学校の避難訓練だったかで聞きかじった通り、姿勢を低くして這うように階段を上がっていく。二階に着くと、こちらにも既に火の手が回っていた。奥にある僕の部屋も、例外ではなかった。半開きになったドアを押し開ける。他よりも更に強い熱気が顔に当たった。
母さんは、僕に関するあらゆる物を僕の部屋のクローゼットにしまっていた。今までにも何度か「アルバムを見せてほしい」と頼まれて、奥から引っ張り出したことがあった。こんな時にも同じことをするなんて、想像もしなかったけど。
クローゼットは開けるまでもなかった。扉に手を掛けようにも、扉自体が燃えていた。その向こうに入っている物がどうなっているのか、僕にだってわかる。
そのつもりはなかったけど、知らず知らずのうちに気を張っていたらしい。脚に力が入らなくなった。僕はフローリングに跪く。煙が、待ち構えていたように絡みついてくる。まともに息が出来なくなる。
泪と熱で歪んだ視界に、人影が見えた。
炎を背にして〈僕〉が立っていた。
〈僕〉は口を結んだままこちらを見下ろしてくる。さっき見えたようなブロックノイズは纏っていない。純然たる〈向田行人〉の姿だ。
表情はない。だけど、その眼には哀しみが宿っている。
哀しみ。或いは、哀れみ。
僕の眼が、僕を哀れんでいる。
熱気が目に沁みた。僕は頬を拭う。それから、小さく溜息を吐く。
「馬鹿だな、僕は」
誰にともなしに言った。
〈僕〉は相変わらず、口を結んで立っている。
後ろで、木の折れるような音がした。出口が塞がれたのかもしれない。でも、わざわざ振り向いて確かめるつもりにはなれない。
熱と煙がいよいよ増してきた。意識が朦朧とする。今すぐにでも床に倒れてしまいたい。
だけど。
だけど、これだけは言っておかなくては。
これだけは、空気を震わせて「言葉」にしておかなくては。
僕は、〈僕〉を見上げたまま言った。
「君は僕だ」
〈彼〉の持つ「弱さ」は、僕と同じものだった。
やっぱり〈彼〉は僕だった。
だから、認めなくちゃいけない。
喜多君が、稲見さんが、佐々木が、母さんがそうしてくれたように、僕も、〈僕〉の存在を認めなくちゃいけない。
どんなものであれ、過去は、絶対に切り離すことが出来ないのだ。
僕は、〈彼〉の眼を見据えて言った。
「そして、僕は君だ」
〈僕〉の口元が、微かに綻んだように見えた。次の瞬間、ホログラムは炎に呑み込まれた。
僕の意識もまた、外側から徐々に闇が染み渡ってきた。
視界が像を結ぶことを諦め、橙色一色となった。やがて、照明を絞るように色が失われていった。
これで最期か、と思っているうちに、そんな考えも暗闇に呑まれて消えた。
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