とある宿場町の宿屋にて
【前書き】
此方のお話は「とある宿場町の海辺にて」前日譚にあたります。
私がその宿屋に着いたのは、月が西の空へと徐々に消え往く明け方の事だった。
朦朧とした意識のベラを腕に抱える私が、ヴィダルの乗る肩で扉を開けて転がり込む。真っ先に出迎えてくれたのは、出入り口の机で帳簿をつけていたらしい宿屋の主人だった。
酷く驚いていた宿屋の主人であったが、ずぶ濡れの格好をしていた私、腕の中でぐったりとしているベラを見て直ぐ様付近のソファへと案内してくれた。
「一体どうしたんだ、こんな時間に、そんな濡れ鼠の格好で……」
何処か訝しむ声色で尋ねる彼に、うんともすんとも言えないまま、ソファにベラを降ろす。この子を包んでいた布が雨で濡れきっているのに今更気付いて、そっと布を取り払う。
額に手を当て、未だ下がりきらない熱に眉宇を寄せる。ソファの縁にヴィダルが飛び乗り、ミイミイと騒ぎ立ててベラの意識を起こそうとしている。
雨粒がしとどに床を濡らす布を慌てて腕に抱えると、私の肩を強く宿屋の主人が叩いた。
「申し訳ありません、非常識な時間帯に突然の来訪を……」
「それより、だ。熱はいつから出た? 熱が出る前に妙な動きはしなかったか? 最後に何を食べた?」
何から話せば良いのかと狼狽える私を察してか、宿屋の主人は矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
頭の中で整頓し直す時間も惜しいが、落ち着いて応えるべく。一拍置いてから、私は口を開く。
「熱はつい先程唐突に。寝入っている折にうなされていたので起こしたのですが、この通り意識が朦朧としていました。
昨晩、寝入る前はいつもと変わらず元気そうでしたが、昼間は……そう言えば、足許が少々覚束なく転びかける事が何度もありました。
最後に食べた物は、森で採れた果物と、人から頂いたクッキーと飴です」
「……なるほどなぁ」
投げかけられた全ての問いに淡々と答える私に、宿屋の主人はそれとだけ呟くと蓄える髭を撫で摩り始めた。
ほんの僅かな時間だったかと思える。窓の空が白みだし、鳥の鳴き声がけたたましく響き出すと、顔を上げて私へと向き直る。
「すぐこの子の服を緩めてやってくれ。なるべく涼しい格好にな、終わったら窓を全開にして朝の内の涼しい風を取り込むんだ」
「服、ですか。わかりました」
「俺は井戸の水汲んで氷嚢を作りにいってくら。かみさんにも言っとくから、あんたはその子の傍にいてやりな」
「! ありがとうございます、お言葉に甘えさせていただきます」
「おう! 大丈夫だ、きっとすぐ良くなるだろうさ」
片腕を上げて宿屋の奥へ姿を消す姿を見送る暇もなく、私は言われた通り、ベラを包む衣服を緩めた。ローブを結わえるリボンを解き、ベラの耳元で延々と騒ぐヴィダルをソファの縁に置き直す。
幸いにも抱えていた私が雨避けになっていたのか、毛先が多少濡れている程度で、ベラの身体はそこまで濡れそぼっていない。一方で濡れている私の上着は、ソファの横に置かせて頂く。
幾らか呼吸の荒さが落ち着いてきたかと安堵を浮かべる…のもまた早い。ヴィダルに、ベラの様子を見ていてくれと頼んだ後、両開きの窓を全て開けて往く。
降っていた雨が嘘の様に澄んだ空が見える。白む空に取り残された星が煌びやかに瞬いているが、鑑賞する余裕も時間も、私には欠いていた。
程なく戻ってきた宿屋の主人が、ひんやりとした氷嚢をベラの頸部に潜らせた。彼の奥方らしい中年の女性もやってくると、水差しを両腕に抱えながら心配そうにベラを覗き込んでいる。
「こりゃあ、日射病だな」
「きっとそうだろうねぇ」
「日射病……?」
「そう、日射病。この子は幼いからねぇ……この時期になると、太陽は急激に日差しを強くさせるの。夜と昼の強い温度差に身体がついてかなくて患っちゃう子がね、いるのよ」
「幼いぶん、身体の構造もまだ未熟だろ? 大人より小せえ子どもに多いんだよ」
木製のたらいに水を注ぎ、その中へ布を押し込んで絞って畳むと、彼女はベラの額へとそっと置いた。離れ際、ベラの頬を撫でて控え目に肩を竦める姿に、私は何とも言い難く、返す言葉に迷っていた。
宿屋の主人が私の肩を数度軽く叩き、如何にも口を開きたがらない私へ、心配するな、と口にする。
「そんな暗い顔してるようじゃ、おめーさん、この子が起きた時に笑われちまうぞ?」
「そうよぉ。あなた、旅人さんよねぇ? まるで修道士さんみたいな格好だけど、神さまに縋らないでうちに縋ったんだから、この子は今日の夜には元気になるわよ」
「え、えぇ……お世話になりまして、申し訳ありません。日射病、私の村には、そのような病はありませんでしたので」
「へぇ? まぁ兎も角だ、その子の意識がしゃんとしたらすぐに呼べや。体力つけさせてやらねばならねぇだろ、ちゃんとした飯をかみさんに作ってもらうからよ。な!」
「そうねぇ。昨日獲れたマグロのステーキなんか食べて貰おうかしら」
「あッ! おめぇ、俺が食うよりも豪華なんじゃねぇかそりゃ!」
「当たり前じゃない! ぐうたらな大の男と小さい子だったら、小さい子に美味しいもの食べさせてやりたいじゃないのよ!」
「俺がぐうたらならおめぇは何だってんだ!」
「……………」
とても賑やかに、……口喧嘩、と言うよりは、どこか小競り合いにも聞こえる彼らの
女性の手の様に柔らかくもない私の手だが、真似事くらいは出来るだろうかとの考えだった。無意味にも息を潜める私は、滑稽に映るだろうか。
腕に抱えていた際は苦しげな息遣いをしていたが、今はそれに遠く。普段の寝息と比べてもまだまだ早いが、随分と穏やかになったものだ。
冷え切った手でベラの頬を撫で続けて暫く経った頃、ベラの瞼が緩慢に押し上がった。無意識に動きを静止させる。
新緑の翡翠色の目がぼんやりと天井を見詰めている。そして間もなく、辺りを見渡して視線を動かし始めていたが、私を凝視する形で止まった。
「…………ベラ」
こうしてじっと見据えられるのは、何も今に始まった事では無い。私は、一言も発さずにいるベラの名を、やはり、恐る恐る呼んだ。
「せ、んせい」
「はい」
「のど。かわきました」
「はい」
「おなかも、…すきました!」
「……はい」
「ミィ!!」
上肢をがばりと起き上がらせるベラの膝へ、額へ置いていた布が落ちる。不抜けた返事を寄越した私へ、ヴィダルの叱咤が飛んでくる。さながら親に叱られた子どものよう、肩を下げながら、甘んじて受けるしか無いか。
いつの間にか私の傍らへとやってきていた宿屋の夫婦が、人の良い笑みを浮かべて笑っていた。
すっかり空に太陽が昇り、明るい日差しが宿屋の食堂を照らす。窓から入り込んだ蝶が高い天井をゆらゆらと浮遊する姿を、両手にナイフとフォークを握り込んで朝食を待ち詫びるベラが見上げていた。
ヴィダルは、彼にとっては大きなフォークを体全てを使って抱き上げて今か今かと卓上を叩いている。
「はい、お待たせー!」
「嬢ちゃんも、妙なぬいぐるみも、おめーさんも、たんと食えー!」
何処か間延びした声で告げる宿屋の夫婦が、両手に持つ皿をベラとヴィダルの前に置いた。
一拍遅れて私の前にも皿が置かれる。先んじて彼らが言っていた通り、香ばしい匂いが食欲をそそる魚のステーキだ。上に、トマトとハーブのソースが綺麗に盛られている。
他に、温野菜と細かな卵であえられたサラダと、南瓜色のスープ、焼きたてだというパンが籠ごとどんと置かれた。
「わあい! いただき、まーす!」
「ミミ、ミィー!!」
「おかわりあるから、ちゃんと良く噛んで食べなさいねぇ」
「は、い!」
「ミッ!!」
予想よりも遙かに元気を取り戻したベラの姿に、安堵を覚えるのも束の間、反動なのか、鼓膜を突き破るかと思わせる程に大声を張るのは如何だろうか。
ヴィダルもつられて声を張る所為か、より耳が痛い心地を覚える。他の宿泊客が出払っていて良かったと思わざるをえない。
だが、彼らを注意出来る器量を、私は持ち合わせていなかった。
「よぉ、修道士さん。此処いいか?」
複雑な心境で魚を口に運ぶ私の前へ、宿屋の主人が台帳を机に広げながら座る。無論私は首を縦に振って、言葉の代わりに所作で快諾を示そう。
ベラの前には彼の奥方が座って、何やら口許を汚しているヴィダルの世話を焼いていた。パンに手を伸ばすベラに、笑顔で手渡す姿は、とても嬉しそうに思えた。
「日射病を知らねえとなると、おめーさんは北国の人かね。ま、思うよりずっと早く元気になれて良かったぜ」
「ええ、……すみません、お食事も特別に作って頂いたようで。代金はきちんと支払いますので、……ご迷惑をお掛けしました」
「いいさいいさ。洗濯代はまけといてやるよ、修道士さん。で? この町にはその子を治すためだけに来たんか?」
「本来の目的と言うと……いいえ。人伝に聞いた話なのですが、町から定期船が出ていると窺いました。その定期船に乗って、経由する三つの港から行けるという、バッケルヴィという街を目指していまして」
「バッケルヴィか! あそこは良いトコだ」
名前を出して直ぐ、間髪入れずに反応を示した宿屋の主人の勢いに、私は思わずと背筋を正した。
隣にいた奥方も手を休めて、私達へと視線を配る。いいわねぇ、と口にして微笑んでいる表情を見るに、占星術士の女性が言ったように、良い街なのだろう。
冷めないうちに、ステーキを一口大に切って口に運ぶ。ほろりと解ける魚の身に、ほんのりと癖のあるハーブと甘めのトマト、強く出る塩と胡椒の風味が飽きさせない味だ。
隣から食べきったらしいベラとヴィダルの視線に負けて、半分程のステーキを彼らの皿へと丁寧に置いて、スープとサラダも彼らの傍へ遣る。一つ、丸い形をしたパンを頂こう。
「ああ、しかし。バッケルヴィを目指すってんなら、定期船が戻ってくるのをちいと待たねばならねぇ。前に出たのが確かひと月と二十日だから…十日くらいかねぇ」
「それならまだ運が良い方よぉ、三ヶ月前に来た若い商人なんて、船が発った次の日に来てさ。二ヶ月近くも待たされてたじゃない」
「おぉ、そう言えばそうだったか! お陰で俺達は暇にならずに済んだもんさ」
「……十日、ですか。では、私達もそのぐらいの時間に」
「ま、とは言えだ。風の次第によっちゃ、早く船が戻る事もありゃ、遅く戻る事もある。船が戻りゃ、いの一番に報せてやるから、安心しな」
「ありがとうございます。とても助かります」
「こちらこそねぇ」
「? ……と、申しますと?」
思わず首を傾げる私に、奥方は楽しそうに肩を揺らした。
台帳に何かを書き込んでいた宿屋の主人も顔を上げ、不適に笑って喉を鳴らしている。
「いえねぇ、その子の食べっぷりが、幼い頃の娘にそっくりでねぇ。美味しそうに食べているのを見て、嫁にいっちゃった娘を思い出したのよ」
「俺はおめーさん見て、無愛想な娘の婿を思い出しちまったよ」
「……そう、なのですか」
愛想の無い目鼻立ちをしている自覚はあったが、歯に衣を着せずに告げられる事はそう多く無い。だが、きっと、だからこそか。
此処まで親身に接してくれていた理由が一つわかった、そんな錯覚を覚えてしまった。いいや、きっと彼らの親切な性質は生来の物だろう。
改めて一礼をする私が、再三、ありがとうございます、と。感謝の言葉を添えようと思った一瞬。
「この、あの、とってもおいしいクリームがはいったパンは、まだありますか!」
「ミ、ニミミ、ミィー!!」
「……口に食べ物を含んだまま喋るのはやめなさい……」
湿気った私の声の後で、笑いを堪える宿屋の夫婦の苦しげな息遣いが心にとても響いた。
……一先ず、嫌がる彼らを気にせず。口許に付着したクリームを拭う事から、始めなければなるまい。
溜息を余儀なく零せさせられる私にかまけず、彼らはその後パンを三つほど平らげて満足そうにしていた。
――私達が夫婦の宿で世話になってから、八日目の朝を迎えた。
朝食を獲るために木を飛び立って往く鳥達よりも早く、目を覚ました私は、宿の裏庭で薪割りに勤しむ事を日課としていた。
何か出来る仕事は無いかと夫婦に申し出て与えられたそれは、人であった頃、野良仕事を熟していた私には造作もないものばかりで、慣れるのにそう時間は食わなかった。
「先生、先生よ!!」
黙々と薪を割っている私の元へ、宿屋の主人が駆け足で飛んでやってくる。
薪を割ったまま、切り株に斧を置く私へと、肩で息をする彼がにやりと片側の口角を上げた。
「船、きたぞ!」
「……! 定期船、ですね」
「おう! だがまぁ、物資の補給だのなんだのあるから、出発は明後日くらいだろう。どうだい、明日くらいにでもベラちゃんと海へ遊びに行ってみろよ」
「海、ですか」
「そろそろ俺達の顔も見飽きてきた頃だろう? バッケルヴィへ経由の港に着く頃には秋に差し掛かってんだろうし、遊んで来いよ」
「……ええ、そう、ですね。お言葉に甘えても、よければ」
「当たり前だろう! すっかり手伝って貰っちまってるし、海遊び一式くらいは貸してやらあよ」
「ありがとうございます」
頭を下げる私に、よせよせ、と肩を叩く主人の笑い声が降りかかる。
海遊び。港町だと言うのに、そういえば私は、滞在中一度もベラを海へ連れて行かなかった。ベラもまた、海よりは、裏庭の一角にある花畑の世話に夢中でいて。港町ならでは、という事を成していない。
「では明日一日、海へ行ってみようかと思います」
「ああ。定期船に乗ったら、海で遊ぶのは難しくなっからな。楽しんできな」
「はい」
薪割りの手を動かそうとする私の腕を留めると、宿屋の主人は部屋へ戻るよう促してから建物へと戻っていった。
掌を広げると、手の豆が潰れて妙な皺を点在させる、無骨な私の手が目に映る。登り始めた陽の光が、それを明瞭に照らし出す。
「……この町を発つ事は、明日に伝えれば良いだろうか」
そう独り言を漏らす私自身もまた、自らの沈んだ声色から、この町をいたく気に入っていたのだと思い出させられる。
動きやすい借り受けた服を脱いで、明日には修道服を着込まねばならない。それから、この町の事も手記に残さなければ。それは今日にでも取り掛かろう。
船に乗る前に食糧もある程度確保しておかねばならない。寄港する町はどれも高い、という噂が故に、念のため。
きっと、町を出る日はあっという間に訪れてしまうのだろう。
あれこれと考えに耽りながら、ベラとヴィダルが眠る宿屋の部屋へと、私は重い足取りで戻った。
異形の修道士は花を摘む 柏木 @kashiwagi_mochi
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